2010年08月29日

8月29日 知恵の教師 イエス

知恵の教師 イエス
マタイによる福音書 5章1-12節

イエスはガリラヤ湖で四人の漁師を弟子としてまねき、ガリラヤ全土をまわって神の国の到来とその恵みを告げ知らせる宣教の旅に出かける。人々はその言葉を聞くためにイエスのもとに集まった。大群衆を前にイエスはガリラヤの丘の上から「幸い」の教えを語る。*イエスの周りにあつまった人たちの多くは貧しく、病の痛みや老いの不安、ユダヤの宗教的な権威や、政治・軍事的圧力であるローマ帝国の暴力の下で、抵抗する術もなく途方にくれているような「弱い」人たちであった。*だが、イエスはこの人たちに向かって、その貧しさと弱さ、悲しみの深さこそが神の国の「幸い」のしるしであるといい、それゆえに優しく、簡素で愛の尊さをしるものこそが神の国の「相続人」であると語る。*Beatitude「幸い訓」とも呼ばれる、イエスの最も
イエスらしい「逆転の思想」のなかに、私たち自身の生き方の刷新の希望を見出そう。
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2010年08月22日

8月22日 ぶどう畑の愛の歌

ぶどう畑の愛の歌
イザヤ書 5章1-7節

イザヤは、愛する主なる神のために、ぶどう畑の歌を歌う。その歌はしかし、ハッ
ピーエンドではない。*愛すべき主なる神が「楽しんで」植え、育んだぶどう畑は、とんでもないすっぱいぶどうの収穫をもたらす。神は、その結果に落胆し、怒り、そのふどう畑を捨てる。そのように、イスラエルの民もまた、神の愛に満ちた導きにも拘らず、流血と阿鼻叫喚の社会を生み出す。神は、そのような民を棄てる、とイザヤは歌うのだ。*亡国と捕囚の悲劇を予見しつつ、神への立ち返りを呼びかける預言者の声に、私たちは今朝、どのようなメッセージを聞くだろう?*65年を経て、灰塵と悔恨の中に立つことをしっているはずの、この国の記憶を、私たち自身が、今、歌うべき「ぶどう畑」の歌に呼び覚まし、織り込み、新しく歌うことができるだろうか。
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2010年08月15日

8月15日 平和の福音

平和の福音
エフェソの信徒への手紙 2章14-22節

エフェソの教会は深刻な内憂を抱えていた。ユダヤ伝統主義の立場をとる人たちと、「異邦人」キリスト者との交わりを育て、ヘレニズム文化に適応した信仰共同体を求める人たちとの間の確執だ。*パウロが「双方」を和解させた、という場合、このユダヤ主義者とヘレニストの「双方」を指す。*それぞれの人間が生き文化や政治の文脈は複雑で多種多様。しかし、キリストの福音は、文化や政治、主義主張の境界を止揚する。そして「民族至上主義」というエゴイズムを無化する。*ギリシャ語で「家」のことを「オイコス」という。ここから「世界=オイクメネ」という言葉が派生する。神の造られた「世界」は正に、全ての被造物の「家」なのだ。それ故、キリスト者は神の支配の下に一体となって一つの建物(=教会)を立ち上げる、というパウロの言葉は、信仰共同体が、より大きな「神の家」=世界(オイクメネ)の平和の礎として招かれていることを私たちに示唆するように思われるのだ。
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2010年08月08日

8月8日 愛の速度で

愛の速度で
マルコによる福音書 15章24〜34節

イエスが請われてヤイロという名の会堂長の娘の癒しに向かう途中にさしこまれたもう一つの癒しの物語、それが今日のテキスト。*この女性は最後の、そして一縷の望みを賭けてイエスの衣服の裾にそっと触れる。公衆の面前に出てくることも許されていない身でありながら、律法の縛りを振りほどいて、彼女は群衆の中に紛れ込んだのだ。*イエスの反応から、この癒しが意図せずに起こったことを私たちは理解する。この女性の燃えるような願いが、イエスから「癒し」をもぎ取った、と言えるのかもしれない。*しかし、癒しは、こっそりと「捥(も)ぎ取って」行けるものではなかった。*女性と対面することを求めたイエスは、彼女の「簒奪(さんだつ)」を追及しなかった。それどころか、彼女の苦痛の12年を受け止め、彼女が最早その苦痛の縛りから自由であることを告げる。*イエスは私たちが、掠め取るか捥ぎ取るようにしか手にすることのない神の恵みを、私たちの当然の取り分として公に宣言される。そのことによってのみ、私たちは神と向き合う存在として「全く」される。
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2010年08月01日

8月1日 主を畏れ、主に仕え

主を畏れ、主に仕え
申命記 10章12節-11章1節

日課の箇所は、モーセがイスラエルの民に、神から授かった律法を読み聞かせる部分(12章以下)への導入。砂漠をさ迷う人々に、神に選ばれた民として、祝福の約束に生きるための掟に耳を傾けよと呼びかける預言者モーセの姿がある。*「主を畏れ、主に仕えよ」とくり返されるが、それはとりもなおさず、隣人への愛と労わり、そして、被造世界全体との調和を求める謙虚な姿勢として示される。その姿勢は、神ご自身が貧しい人、傷ついたもの、身寄りのないこどもや女性、寄留者に慈しみ(ヘセド)を示されるゆえに、その民にも期待される生き方となる。*「心の包皮を切り捨てよ」とは過激な勧告だ。神の民の身体的しるしである割礼を魂のレベルにまで敷衍(ふえん)する。*調和を求める生き方に神の義が結実する。
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