2010年10月31日

10月31日 雲の中に虹を置いて

雲の中に虹を置いて
創世記 9章8-17節

「二度と地上の息あるものを滅ぼすことはしない・・・種まきも刈り入れも絶えることはない」。神は命が拭(ぬぐ)い去られた地上をみて深く後悔し、自らが直接介入をして創造の「秩序」を回復することは二度としない、と誓われる。その徴(しるし)に、美しい虹が雲の間に置かれる。*私たちは、神の名のもとに全てに秩序を要求する。そして秩序回復の大儀の元に、自らの理想とする「枠」からはみ出す命を切り捨て抹殺して平然とする。*だが、私たちが、神の名を騙(かた)り秩序を崇(あが)め奉(まつ)ることは、虹によって封印された契約によるならば胡散臭(うさんくさ)い偶像礼拝だ。*神は二度と、人間の猥雑(わいざつ)な営みを「粛清(しゅくせい)」することを放棄された。わたしたちはこの混沌(こんとん)とした日常をそのままに、その混沌をこそ新しい創造の源としてよろこぶよう、もとめられている。
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2010年10月24日

10月24日 これは何者か?

これは何者か?
ヨブ記 38章1〜18節

私たちの教団の主日の聖書日課は、今週から5週の間、「敷居の時間」を旅する。*「敷居の時間」とは「あちらでもこちらでもない」、曖昧で、だからこそ自由自在な時空間を意味する。聖霊降臨節と待降節との間、過ぎ越し礼拝の暦の一年と、来るべき新しい礼拝のサイクルとの架け橋の上で、創造の神の知恵の神秘、その秘められた救いの計画が、覆いを取り去られて私たちの目の前に明らかに示される。*ヨブは絶対絶命の危機の中でもひたすらに神の存在を信じて神に呼びかける。そのヨブの叫びに応えて、遂に嵐の中から神はヨブに語りかける。しかし、その言葉は決して優しいだけのものではなかった。*神はヨブを問責する。神の創造の業の偉大さの前に、世の初めから終わりまでを全て見通すその知恵の前に「おまえは何者か?」と。*神への徹底的な信従がヨブの魂を解き放つのを目の当たりにするとき、私たちもまた、神のご計画の「時」の流れの中に自らを委ねる勇気を新たにしたい。
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2010年10月17日

10月17日 キリスト者の刻印

キリスト者の刻印
ヨハネの黙示録 7章2-4、9-12節

聖霊降臨節の最終の主日、わたしたちは黙示録の天上の礼拝に招かれ、そして新しい天と地が現れるその「時」のために選ばれる聖徒の列へとまねかれる。*「黙示」とは、「覆いを取る」という語から発している。本来、人の目からは隠されている、「終わりの時」の様が、「使徒ヨハネ」の語りを通して露にされる。*語り手は、老齢にあってローマ皇帝の激しい迫害の下、信仰の故に捕縛され、パドモス島へ配流(はいる)となる。孤独と痛みの中、彼は小アジアの迫害に耐える7つの教会の仲間たちのため、「神の勝利の時」の幻を記録するのだ。*選ばれた者たちが「刻印」を受ける。彼らはイスラエルの全部族から選ばれたものたちであり、その「選ばれた民」と共に、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」が賛美の大合唱に加わる。*激しい迫害の中、命を落としていった「聖徒たち」のその犠牲が贖われるとうい希望が、「終わりの時」に実現する天上の礼拝の幻の中に描かれる。目の前に広がる「今」=逆境の向こうに用意された、「来るべき時」の希望を先取りする語り手の眼差(まなざ)しを分かち合いたい。
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2010年10月10日

10月10日 毅然として

毅然として
ダニエル書 3章13-26節

ダニエル書は、有体(ありてい)にいうと「偽預言書」だ。バビロニア捕囚期、ネブカドネザル王の時代を装って、実はペルシャ帝国のエピファネスの下でのイスラエル民族の苦難を描いているのだ。迫害が将に頂点に達して、今、将に神の裁きが下る直前であるとの終末待望が、この「殉教物語」の背景にある。*物語は「偶像礼拝」を巡る対立を軸に展開する。暴君は自らを神として拝むよう強要し、王の家臣として生きるイスラエルの若者三名はそれを拒否する。和解の道はありえない。*圧倒的な権力を握る為政者が、「神の民」の殺生与奪の権限を掌握している。しかしその権力の前に、「神の民」は、安易な服従の道を選ばず、却って大変高価な犠牲=命という代価を払ってでも自らの忠誠がどこにあるのかを示す。*物語は、殉教を礼賛・推奨している、と言って良い。しかし、今日的な文脈では、そしてやはり教会の信仰のあり方として、「死」の礼賛を福音とすることはできない。私たちは、この三人の若者が「生きて」燃え盛る炉から出てきたという、所に一層の注目を置かなければならない。*死の只中にも活路を開く、命の神、活ける神がおられる。だから、毅然として否は否、是は是と私たちは言うことが出来る。
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2010年10月03日

10月3日 想起する、愛

想起する、愛
出エジプト記 32章7-14節

「神の宣教=Missio Dei」、それは、この世界のために、神がまず先立って宣教の業を成し遂げられる、という考えだ。神ご自身が先導される業に教会が招かれ、用いられる。教会が、神とこの世の間を取り持つのではなく、神ご自身が、この世と信仰の群れの間に立って和解を成し遂げ信仰の交わりへと人々を招かれるので、教会はその「先行する救いの業」を証する務めを果たすのだ。*モーセは、神と向き合う関係に招かれながら、神の信頼を裏切った民と、怒りに燃える神の間を執り成そうとする。私たちは、この物語のどこに自らの姿を見出すだろうか。*教会は「執り成しの共同体」であるとも言われる。神と世の間、人と人との間の和解のために祈り、行動する共同体、ということだ。だが神は教会の「故に」赦しと恵みを約束されるのではない。ご自身が愛し選んだ民の誠実を想起する愛によってのみ和解は実現する。教会はこの神の忍耐と想起の愛を記憶し、語り継いで証しすることにおいて神の宣教に参与する
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