2010年11月28日

11月28日 人間・共に生きる

人間・共に生きる
エフェソの信徒への手紙 2章11節〜22節

私たちの礼拝の暦は待降節から始まります。この年も、世の中の慌しい時間を衝いて礼拝の新しい暦が始まります。*私たちは今朝、古い年の悲喜交々を振り返り、それらを感謝と共に記憶に留めつつ、真新しい礼拝生活の入り口で一旦立ち止まることを求められています。待降節は、主イエスの幼子としての到来を待ち望む季節であると共に、神さまの時の終わり、最後の審判の時に臨んで、その到来に備えるときでもあるからです。*神の前に、過ぎし年の歩みを吟味し、自らの過ちを認め、神の前に謙虚に立ち返って赦しを請う事なしに、救い主の誕生と共に、栄光の主の来臨に相応しく備えることは出来ません。新しい暦の入口で、心を鎮め、呼吸を整え、自らの内に視線を向け、自分自身と向き合うときを充分に持ちたいものです。*在りのままの自分の姿は時に私たちを不安にさせ、また苛立たせるでしょう。しかし、その所在ない私たちと共に、その在り難さを生きてくださる方が、私たちの待ち望む幼子であり栄光の主であることを忘れず「留まる」時を持ちましょう
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2010年11月21日

11月21日 王とは誰か?

王とは誰か?
サムエル記下 5章1〜5節

イスラエルの人々は、軍事的指導者としての才能を「神の選び」としてダビデを王に推挙した。先代の王もまた、その軍功と美貌が王としての「相応(ふさわ)しさ」であるとして王に推挙されている。人間の利害や好みが、都合よく「神の声」となる。*ダビデはしかし、このような民の推挙を受け入れ、神と民の前で王の塗油を受け、誓いを立てた。人の思惑や操作の向こう側の、隠された神の意思を確かめようとでもするように。*十字架と復活の主だけが、私たちを統べ治める方であると告白する群れである私たちは、自分の好みや利害を正当化するための「権威」を求めて「王」を作り出すものであってはならない。*畏(おそ)れるべき方はただお一人なのだから。
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2010年11月14日

11月14日 叫びを聞き、痛みを知る神

叫びを聞き、痛みを知る神
出エジプト記 3章1〜15節

モーセは、イスラエルに対するエジプト人の理不尽な政策への義憤(ぎふん)から殺人を犯し、ミディアンの地へと逃亡、「政治難民」として暮らしていた。彼はそこで、土地の有力者エトロの娘婿となり、安定した生活を得ていたが、ある日、「燃えているのに燃え尽きない」柴に引き寄せられ、父祖の神と出会う。*炎の中からモーセに語りかける神は、「イスラエルの民の叫びを聞き、その痛みを知った」故に、モーセの前に自らを現して、民の救世主として遣わすのだとモーセに迫った。モーセはその召しを辞退しようとするが、自らの、多くの恐るべき名を明らかにして迫る神の前に最後は黙して従う。*人間の叫びを聞き、その声に応えて私たちの間に降り立ち、痛みをつぶさに知って共感される方、自ら「有ってあるもの」と名乗る方が、私たちを遣わし、また共に行かれる。その名は燃え尽きない柴の様に尽きない希望の徴(しるし)だ。
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2010年11月07日

11月7日 主は旅人の姿で

主は旅人の姿で
創世記 18章1-15節

マムレの樫の木の下で天幕をはっているアブラハムに主なる神がご自身を現す。主なる神は「旅人」の姿で、アブラハムの日常に「非日常」を持ち来る。それは喜びとともに大きな混乱と不安をアブラハムとサラにもたらす。*思いがけないタイミングと、思いもよらないいでたちで、神は私たちを訪れ、「驚き」を与える。私たちはその「驚き」を、自らの営みのなかで、自分の責任で、人生の「賜物(たまもの)」として受け取ることを迫られる。*「まさか!」の知らせを、祝福として受け取り生かす、大胆で、想像力に富んだ、そして柔軟な信仰が求められる。
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