2011年07月31日

7月31日 キリストの心

キリストの心
ルカによる福音書 7章36-50節

7:36さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。7:37この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、7:38後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。7:39イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。7:40そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。7:41イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。7:42二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」7:43シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。7:44そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。7:45あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。7:46あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。7:47だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」7:48そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。7:49同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。7:50イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

*36 ユダヤ人はギリシア・ローマ人の習慣を取り入れ、正式の食事において横臥。
*37-38 それゆえ、《罪深い女》が入って来て、イエスの足もとに近づくことができた。客のいる家に勝手に入ってくることは社会的慣習として許されることであったが、この女はおそらく娼婦であり、この場にふさわしい人ではなかった。しかし、さらに不浄の存在であるはずの彼女がイエスに触れる。ファリサイ派の人の視点から見ると、彼女もそれを許すイエスもタブー(禁忌)を犯している。
*39 それゆえ、ファリサイ派の人はイエスが預言者であることを疑う。しかし、イエスはこの女がだれであるかを知るゆえに、彼女の振る舞いを許し、そこに彼女の悔い改めと愛を感得する(38)。
*40-43 このたとえの解釈は難しい。「多く赦された者が多く愛する」のだろうか。
*44-47 彼女の愛の大きさを見よ。しかし、それは「多く赦された者は多く愛する」(43)こと、《この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる》(47)ことと矛盾しないのか。矛盾しない。この人の溢れるばかりの愛は、彼女の中で既に働いている神の豊かな赦しの表現にほかならないのだから。
*50 イエスは彼女に救いを宣言。彼女の霊的救いのみでなく、社会への復帰を促す全体的救いを付与。
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2011年07月17日

7月17日 わたしを救うわたしの信仰とは

わたしを救うわたしの信仰とは
ルカによる福音書 17章11-19節

17:11イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。17:12ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、17:13声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。17:14イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。17:15その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。17:16そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17:17そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 17:18この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」17:19それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

*12《重い皮膚病》種々の皮膚病の総称(レビ13章)。《十人の人が出迎え、遠くの方に立って》重い皮膚病にかかっている人々は汚れた者とされ、人々との接触を避けるために町の外に住まねばならなかった。(レビ13:4-46、民5:2)。彼らは集団で生活する傾向があったが、《十人》は後半で「一人」対「九人」と対照的に示すためのもの。
*14b-16 十人は祭司のところに行く途中に清められるが、《その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった》。彼も命じられるままに祭司のところに向かった。しかし彼(だけ)は途中いやされたことを知って、引き返し、《イエスの足もとにひれ伏し》た。そして、神への讃美はイエスへの感謝として、イエスの奇跡行為の本来の意味が彼の中に生きて働いている。彼は肉体と心を含めて全体的にいやされたのである。
*17-18 イエスはユダヤ人の立場から彼を《外国人》(18)と呼ぶが、イエスとサマリア人の間では民族や民族宗教としてのユダヤ教を超えた関係が実現している。イエスがエルサレムへの旅の最初にサマリア人の村に入ったとき(9:52)、彼らはイエスがエルサレムに向かっていたために、彼を迎え入れなかった。19しかし、いまや、このサマリア人はイエスを迎え入れ、ユダヤ人に対しても、信仰のモデルとなっている。
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2011年07月10日

7月10日 喜びを分け与える神

喜びを分け与える神
ルカによる福音書 15章1-10節

15:01徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。15:02すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。15:03そこで、イエスは次のたとえを話された。15:04「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。15:05そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、15:06家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。15:07言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」15:08「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。15:09そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。15:10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

*1-2。イエスがたとえを語られた状況。百匹の羊は羊飼いにとって単なる所有物ではなく、より大きな家族に属するもの。4。《あなたがたの中に》は、聞き手に自分の事柄として考えるよう訴えている。但し、羊飼いは神を表すイメージとして用いられている。さらにメシア・イエスのイメージとして。5-6。《見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて》喜びを共にしてほしいと願う。7。しかも、《悔い改める一人の罪人》は《悔い改める必要のない九十九人の正しい人》よりも大きな喜びが天にあると、社会的価値判断を逆転させる。これら《正しい人》がファリサイ派の人々や律法学者たちを指すとすれば、そこにはイエスの皮肉が込められている。ルカが強調する悔い改めは断食したり、悲しんだりすることより、喜びである。涙を流すとすれば、喜びの涙である。
*8。《ドラクメ銀貨》デナリオンと等価で一日の労働賃金に相当する。十ドラクメの蓄えをもつ女性が見失った一ドラクメを見つけだすまで、諦めず捜す。《ともし火をつけ》窓のない家を想像させる。
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2011年07月03日

7月3日 力尽きる時に

力尽きる時に
ルカ福音書 8章40-56節

8:40イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。8:41そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。8:42十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。8:43ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。8:44この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。8:45イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。8:46しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。8:47女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。8:48イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」8:49イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」8:50イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」8:51イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。8:52人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」8:53人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。8:54イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。8:55すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。8:56娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。

*40-42a会堂長。会堂(シナゴーグ)の管理運営責任者であり、後期ローマ時代には会堂を中心とした地域社会の行政の長を兼ねることもあった。社会的地位のある彼が危篤状態の一人娘のために《イエスの足もとにひれ伏して》、救いを懇願する。*42b-48《出血》は彼女を「祭儀的に不浄」(レビ15:19-31)とした。それゆえ、病気そのものは伝染性でなくても、不浄は伝染するものとされ、地域社会から孤立して生活し、結婚することもできなかった。44《後ろからイエスの服の房に触れると》イエスを取り巻いている群衆に触れながら、さらにイエスの服に触れるのは、いずれも律法違反の行為。47《女》はイエスの透視力に恐れつつ、行為と身に起こったことを告白。それは彼女の信仰告白でもあった。
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