2011年12月25日

12月25日 光を放つ言葉

光を放つ言葉
ヨハネによる福音書 1章1-14節

1:01初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:02この言は、初めに神と共にあった。1:03万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:04言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:05光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。1:06神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。1:07彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。1:08彼は光ではなく、光について証しをするために来た。1:09その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。1:10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。1:11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。1:12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。1:13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。1:14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

*1:1-18最も短いイエス伝と呼ばれる9節から12節を内に含みつつ、この福音書がナザレ人イエスの生涯をどのような視点から描こうとしているかをあらかじめ示すための重要な序文である。               (「新約聖書注解」より)
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2011年12月18日

12月18日 見えてくる神のわざ

見えてくる神のわざ
ルカによる福音書 1章57-66節

1:57さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。1:58近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。1:59八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。1:60ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。1:61しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、1:62父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。1:63父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。1:64すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。1:65近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。1:66聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。

*ここの場面は常にザカリアへの天使の予告を念頭において理解するのが望ましい。割礼は神の契約の慈しみのしるしだが、ここでは特にその具体化の一つとしてのエリサベトへの慈しみ(58)のしるしである。ここでの文学的技巧は、母が命名しようとして、しかもその名が母に知らせていないはずのザカリアの思う名と一致したという不思議さに重点がある。人々の驚きはこれにある。誕生と名付けは大事件であることがこの二重の不思議さと二重の驚きによって強調される。これはヨハネの使命にかかわることであり、人々はヨハネの将来の運命を尋ねるのである。その使命は《この子には主の力が及んでいたのである》という表現によって、80節を準備し、これは2:40および52節の記述の先触れとなる。               (「新約聖書注解」より)
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2011年12月11日

12月11日 荒れ野の声

荒れ野の声
ヨハネによる福音書 1章19-28節

1:19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、1:20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。1:21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。1:22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」1:23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」1:24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。1:25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、1:26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。1:27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」1:28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

*19-20「あなたはどなたですか」という問いは、本来はキリスト論的問いであり、イエスに対して向けられるべき問いであるが、第4福音書では、この問いがまずヨハネに向けられている。それは洗礼者ヨハネをメシアとする人々があったからだと想定され、ヨハネの口を通して否定させていると考えられる。それは最初の読者たちにとってはこの問いを正しくイエスに向けさせるために必要なことだったのだろう。22-23ヨハネがメシアでないことは自らの口で否定した。そこでユダヤ教当局者に回答するために遣わされた人たちはヨハネに自己規定を求めている。それは一世紀末のヨハネ福音者が書かれた状況において必要だったのである。ヨハネはイザヤ書40:3を用いて自分を「荒れ野の声」としている。               (「新約聖書注解」より)
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2011年12月04日

12月4日 見たこともない神を信じる

見たこともない神を信じる
ヨハネによる福音書 5章31-40節

5:31「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。5:32わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。5:33あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。5:34わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。5:35ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。5:36しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。5:37また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。5:38また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。5:39あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。5:40それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

*聖書に関して第4福音書記者は、この《聖書はわたしについて証しするものだ》とイエスに言わせている。39節《聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している》にもかかわらず、《父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じない》、《あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない》と指摘されているように、問題は聖書を読む者の側にある。38節《あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである》。不信仰は具体的には、聖書を読んでも、その内容を受け入れないことにある。《あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証をするものだ》ということになる。言い換えれば聖書の証言はそれだけでは有効に力を発揮できず、御霊即ち、神の霊の働きによって初めて証言としての働きをなすのである。
(「新約聖書注解」より)
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