2011年08月21日

8月21日 わたしの隣人とは

わたしの隣人とは
ルカによる福音書 10章25-37節

10:25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」10:26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、10:27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」10:28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」10:29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。10:30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。10:31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。10:32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。10:33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐に思い、10:34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。10:35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』10:36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」10:37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

*25-29。イエスは律法学者の問いに答えず、問いをそのまま彼にかえし、自答させる。二重の愛(神への愛と隣人への愛)を内容とする律法学者の答えはユダヤ教の中核を成すものとして、イエスはこれに同意し、その実践を促す。《自分を正当化しようとして》直訳すると「自分を義としようとして」《隣人とはだれですか》と隣人の定義を求める。ユダヤ教では隣人は基本的に民族同胞に適用される概念。イエスは隣人について「定義」せず、「物語」る。
*30-37。最初に現場にやってきた祭司は《その人を見ると、道の向こう側を通って行った》もしその人が死んでいたとすれば、死体の汚れに触れないことは祭司の義務であったから。とすれば、彼はまず司祭としての職務に忠実であったということだ。レビ人は祭司の下位にあって補佐的に神殿奉仕などの宗教的務めをする部族。サマリア人は《そばにくると、その人を憐れに思い、近寄って傷(乃手当てをし、)宿屋に連れて行った》うえ、自分は旅を続けなければならないのに、その後のことにまで配慮する。ここには民族や宗教の相違を超えた愛が、隣人観における{内}と「外」を超えた隣人愛が語られている。「隣人とは誰か」ではなく「誰がその人の隣人となったか」と問われたゆえんである。イエスは再び、彼の正しい答えを実行するように促す。
posted by MATSU at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 2011年度4〜9月 | 更新情報をチェックする
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