2011年09月25日

9月25日 十字架を背負う

十字架を背負う
ルカによる福音書 14章25-35節

14:25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。14:26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。14:27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。14:28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。14:29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、14:30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。14:31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。14:32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。14:33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」14:34「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。14:35畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

*弟子の資格は否定的な表現で《……なら、わたしの弟子ではありえない》とはじめに二度、最後にもう一度繰り返して示される(26、27、33)。その間の二つのたとえは、完全な覚悟と弟子たることの厳しさを教える。
*25-26。イエスは群衆に、ともに歩むこと、ついて来ることの本当の意味を示す。骨肉の縁よりも、おのれ自身よりもイエスを大切にすべきであるとの要求は、結局的決定的な救いが全く、イエスの人格そのものにかかっていることを示す。27。自分の命よりもイエスを大切にするということは、大きな十字架であろう。十字架を背負うという表現は、イエスの弟子がイエスの受難と死を共にすることを教える。28-32。弟子となるには、それに見合う覚悟があるか否かを自分に問うべきである。しかし途中でやめてしまうのは愚かである、これを主眼として、たとえは続く。33。だからイエスの弟子たるには、すべてを捨てる覚悟が必要で、自分の命さえも(26)、捨てる覚悟が要求される。34-35。このたとえは、先行する文と関連して意味が生まれる。イエスの弟子たらんとする者には、死をも覚悟の強い決意が要求される。しかし、このような覚悟がなくなると、イエスの弟子たる意味、即ち、他の人々にイエスの精神を植えつけ、イエスの精神を他に影響させることも不可能になる。それはちょうど食べ物に味をつけてそれを美味にさせるべき塩が、塩気をなくしたようなものである。《外に投げ捨てられるだけだ》という句には、神の国から捨てられるという神の裁きの警告である。そしてこれを強めて《聞く耳のある者は聞きなさい》という預言者的警告がされる。
posted by MATSU at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 2011年度4〜9月 | 更新情報をチェックする
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