2011年12月18日

12月18日 見えてくる神のわざ

見えてくる神のわざ
ルカによる福音書 1章57-66節

1:57さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。1:58近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。1:59八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。1:60ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。1:61しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、1:62父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。1:63父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。1:64すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。1:65近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。1:66聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。

*ここの場面は常にザカリアへの天使の予告を念頭において理解するのが望ましい。割礼は神の契約の慈しみのしるしだが、ここでは特にその具体化の一つとしてのエリサベトへの慈しみ(58)のしるしである。ここでの文学的技巧は、母が命名しようとして、しかもその名が母に知らせていないはずのザカリアの思う名と一致したという不思議さに重点がある。人々の驚きはこれにある。誕生と名付けは大事件であることがこの二重の不思議さと二重の驚きによって強調される。これはヨハネの使命にかかわることであり、人々はヨハネの将来の運命を尋ねるのである。その使命は《この子には主の力が及んでいたのである》という表現によって、80節を準備し、これは2:40および52節の記述の先触れとなる。               (「新約聖書注解」より)
posted by MATSU at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 2011年度10〜3月 | 更新情報をチェックする
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