2011年09月25日

9月25日 十字架を背負う

十字架を背負う
ルカによる福音書 14章25-35節

14:25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。14:26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。14:27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。14:28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。14:29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、14:30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。14:31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。14:32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。14:33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」14:34「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。14:35畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

*弟子の資格は否定的な表現で《……なら、わたしの弟子ではありえない》とはじめに二度、最後にもう一度繰り返して示される(26、27、33)。その間の二つのたとえは、完全な覚悟と弟子たることの厳しさを教える。
*25-26。イエスは群衆に、ともに歩むこと、ついて来ることの本当の意味を示す。骨肉の縁よりも、おのれ自身よりもイエスを大切にすべきであるとの要求は、結局的決定的な救いが全く、イエスの人格そのものにかかっていることを示す。27。自分の命よりもイエスを大切にするということは、大きな十字架であろう。十字架を背負うという表現は、イエスの弟子がイエスの受難と死を共にすることを教える。28-32。弟子となるには、それに見合う覚悟があるか否かを自分に問うべきである。しかし途中でやめてしまうのは愚かである、これを主眼として、たとえは続く。33。だからイエスの弟子たるには、すべてを捨てる覚悟が必要で、自分の命さえも(26)、捨てる覚悟が要求される。34-35。このたとえは、先行する文と関連して意味が生まれる。イエスの弟子たらんとする者には、死をも覚悟の強い決意が要求される。しかし、このような覚悟がなくなると、イエスの弟子たる意味、即ち、他の人々にイエスの精神を植えつけ、イエスの精神を他に影響させることも不可能になる。それはちょうど食べ物に味をつけてそれを美味にさせるべき塩が、塩気をなくしたようなものである。《外に投げ捨てられるだけだ》という句には、神の国から捨てられるという神の裁きの警告である。そしてこれを強めて《聞く耳のある者は聞きなさい》という預言者的警告がされる。
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2011年09月11日

9月11日 正しい服従

正しい服従
ルカによる福音書 14章1-6節

14:01安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。14:02そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。14:03そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」14:04彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。14:05そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」14:06彼らは、これに対して答えることができなかった。

*ルカ福音書には安息日にイエスがいやしをしたことが6:6-11(手の萎えた人)、13:10−17(腰の曲がった婦人)と今日のところ(水腫の人)の三箇所あります。6章と13章は会堂でのいやしで、今日のところはファリサイ派のある議員の家でのいやしです。13章の話の後には「からし種」と「パン種」のたとえが、今日のところの後には客と招待する者への教訓が記されています。
*今日の聖書日課は、旧約が出エジプト記23:10−13、使徒書がローマ14:1−9、
 詩篇が92:2−16です。旧約には安息日のことが、使徒書には「わたしたちは主のものです」との御言葉が記されています。
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2011年09月04日

9月4日 神の支配はどこに始まるか

神の支配はどこに始まるか
ルカによる福音書 13章10-21節

13:10安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。13:11そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。13:12イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、13:13その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。13:14ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」13:15しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。13:16この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」13:17こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。13:18そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。13:19それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」13:20また言われた。「神の国を何にたとえようか。13:21パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

*10-13安息日に会堂で教えていたイエスはそこに《18年間も病の霊に取りつかれている女》を見て、その病をいやす。イエスのほうから彼女にいやしの言葉を語り、手を置いていることが注目される。《病気は治った》(12)は、直訳すると「あなたはあなたの病気から解放された」。
*18《そこで》腰の曲がった女のいやしを説明する。つまり、18年間もの間病気の霊のもとに抑圧されていた一人の女の解放は《からし種》のように小さな始まり。しかし、大きくなって、その枝に鳥が巣をつくるほどになるように、女の解放は神の国の到来を準備する。ちょうど、少量のパン種が三サトン(1サトンは約13リットル)の粉を膨らますように。
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2011年08月28日

8月28日 信徒日礼拝

信徒日礼拝

本日の礼拝は信徒日礼拝で2名の方が証しをされました。北六甲教会は長らく礼拝で信徒の証しを聞くことがなかったのですが、本日2名の方より自らの生活から感じた神の証しを聞くことが出来、大変良かったと感謝しています。教会は器ではなく集まった人によってつくられるものだと思わされました。

牧師が選んだ今日の言葉

ある兄弟が師父マトエスに尋ねた。「僕はどうすりゃいいのでしょう。舌が禍おこすのです。人々と共に居るとすぐ、自分で制御がきかなくなって、人の善意に文句をつけ、すぐに批判にまわりだす。そんなわけです、どうしましょう」。  これに答えて老師がいった。「もし君が自分を制御できないならば人々を避けて出て行って、どこかで独りで暮らしなさい。君は弱点かかえてるから。人々と共に暮らすなら真四角でなく、丸くあらねばなりません。そうすれば誰の元へも転がれる」。さらに老師はこういった。「わしが独りで暮らしてるのは徳が高いからでなく、わしの弱さのせいなのさ。他人と暮らして行けるのはほんとは強い人なのだ」。(「砂漠の知恵―砂漠の師父母の言行録」より)
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2011年08月21日

8月21日 わたしの隣人とは

わたしの隣人とは
ルカによる福音書 10章25-37節

10:25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」10:26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、10:27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」10:28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」10:29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。10:30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。10:31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。10:32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。10:33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐に思い、10:34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。10:35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』10:36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」10:37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

*25-29。イエスは律法学者の問いに答えず、問いをそのまま彼にかえし、自答させる。二重の愛(神への愛と隣人への愛)を内容とする律法学者の答えはユダヤ教の中核を成すものとして、イエスはこれに同意し、その実践を促す。《自分を正当化しようとして》直訳すると「自分を義としようとして」《隣人とはだれですか》と隣人の定義を求める。ユダヤ教では隣人は基本的に民族同胞に適用される概念。イエスは隣人について「定義」せず、「物語」る。
*30-37。最初に現場にやってきた祭司は《その人を見ると、道の向こう側を通って行った》もしその人が死んでいたとすれば、死体の汚れに触れないことは祭司の義務であったから。とすれば、彼はまず司祭としての職務に忠実であったということだ。レビ人は祭司の下位にあって補佐的に神殿奉仕などの宗教的務めをする部族。サマリア人は《そばにくると、その人を憐れに思い、近寄って傷(乃手当てをし、)宿屋に連れて行った》うえ、自分は旅を続けなければならないのに、その後のことにまで配慮する。ここには民族や宗教の相違を超えた愛が、隣人観における{内}と「外」を超えた隣人愛が語られている。「隣人とは誰か」ではなく「誰がその人の隣人となったか」と問われたゆえんである。イエスは再び、彼の正しい答えを実行するように促す。
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2011年08月14日

8月14日 苦難の共同体

苦難の共同体
ルカによる福音書 9章51-62節

9:51イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。9:53しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。9:54弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。9:55イエスは振り向いて二人を戒められた。9:56そして、一行は別の村に行った。9:57一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。9:58イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」9:59そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。9:60イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」9:61また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」9:62イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた

*55イエスは弟子たちを戒める。イエスは彼を拒む人々の所を去り、別の所に行く。裁きは終末の時に、神に属する。イエスは弟子たちの力の乱用を戒める。
*57-62三人に共通するイエスに《従う》テーマ。57-58第一の人は自らイエスが行くところならどこにでも従うことを志願。しかし、イエスは狐や鳥ですらねぐらをもつが、おのれが枕するところのない旅人であることを告げ、彼の志願を取り合わない。
*59-60この人にはイエスは《わたしに従いなさい》と呼び掛ける。彼はイエスに従う気持ちをもっているかもしれないが、その前にまず父を葬りに行かせてほしいと言う。これはユダヤ教社会の家族にとって何ものにも優先されるべき義務。
*61-62第三の人も弟子志願者。第一の人と異なり、イエスを《主よ》呼ぶ。彼はしかし、まず家族へのいとまごいをさせてほしいと願う。
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2011年08月07日

8月7日 人生をはかるはかり

人生をはかるはかり
ルカによる福音書 6章27-36節

6:27「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。6:28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。6:29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。6:30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。6:31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。6:32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。6:33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。6:34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。6:35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。6:36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

*27はルカ版のみに見られる。愛敵の教えは教えの一項目ではなく、基本テーマ。
*《悪口を言うものに祝福を祈る》、29《頬を打つ者には、もう一方を向けよ》《上着を奪い取る者には、下着をも……与えよ》これらの《敵》に対して愛をもって応えよとの教えは愛敵の教え(27)の具体例である。愛敵の具体例はこれら三例に限られるものではなく、イエスの弟子たちにも、ルカの読者たちにも、今日の我々にも他に様々の具体例があり得る。
*《あなたがたの父が憐れみ深いように》愛を人間の行動様式に限定するのではなく、我々に憐れみ深く関わりたもう愛の神に倣う者であること。
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2011年07月31日

7月31日 キリストの心

キリストの心
ルカによる福音書 7章36-50節

7:36さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。7:37この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、7:38後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。7:39イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。7:40そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。7:41イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。7:42二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」7:43シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。7:44そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。7:45あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。7:46あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。7:47だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」7:48そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。7:49同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。7:50イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

*36 ユダヤ人はギリシア・ローマ人の習慣を取り入れ、正式の食事において横臥。
*37-38 それゆえ、《罪深い女》が入って来て、イエスの足もとに近づくことができた。客のいる家に勝手に入ってくることは社会的慣習として許されることであったが、この女はおそらく娼婦であり、この場にふさわしい人ではなかった。しかし、さらに不浄の存在であるはずの彼女がイエスに触れる。ファリサイ派の人の視点から見ると、彼女もそれを許すイエスもタブー(禁忌)を犯している。
*39 それゆえ、ファリサイ派の人はイエスが預言者であることを疑う。しかし、イエスはこの女がだれであるかを知るゆえに、彼女の振る舞いを許し、そこに彼女の悔い改めと愛を感得する(38)。
*40-43 このたとえの解釈は難しい。「多く赦された者が多く愛する」のだろうか。
*44-47 彼女の愛の大きさを見よ。しかし、それは「多く赦された者は多く愛する」(43)こと、《この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる》(47)ことと矛盾しないのか。矛盾しない。この人の溢れるばかりの愛は、彼女の中で既に働いている神の豊かな赦しの表現にほかならないのだから。
*50 イエスは彼女に救いを宣言。彼女の霊的救いのみでなく、社会への復帰を促す全体的救いを付与。
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2011年07月17日

7月17日 わたしを救うわたしの信仰とは

わたしを救うわたしの信仰とは
ルカによる福音書 17章11-19節

17:11イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。17:12ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、17:13声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。17:14イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。17:15その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。17:16そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17:17そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 17:18この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」17:19それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

*12《重い皮膚病》種々の皮膚病の総称(レビ13章)。《十人の人が出迎え、遠くの方に立って》重い皮膚病にかかっている人々は汚れた者とされ、人々との接触を避けるために町の外に住まねばならなかった。(レビ13:4-46、民5:2)。彼らは集団で生活する傾向があったが、《十人》は後半で「一人」対「九人」と対照的に示すためのもの。
*14b-16 十人は祭司のところに行く途中に清められるが、《その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった》。彼も命じられるままに祭司のところに向かった。しかし彼(だけ)は途中いやされたことを知って、引き返し、《イエスの足もとにひれ伏し》た。そして、神への讃美はイエスへの感謝として、イエスの奇跡行為の本来の意味が彼の中に生きて働いている。彼は肉体と心を含めて全体的にいやされたのである。
*17-18 イエスはユダヤ人の立場から彼を《外国人》(18)と呼ぶが、イエスとサマリア人の間では民族や民族宗教としてのユダヤ教を超えた関係が実現している。イエスがエルサレムへの旅の最初にサマリア人の村に入ったとき(9:52)、彼らはイエスがエルサレムに向かっていたために、彼を迎え入れなかった。19しかし、いまや、このサマリア人はイエスを迎え入れ、ユダヤ人に対しても、信仰のモデルとなっている。
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2011年07月10日

7月10日 喜びを分け与える神

喜びを分け与える神
ルカによる福音書 15章1-10節

15:01徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。15:02すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。15:03そこで、イエスは次のたとえを話された。15:04「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。15:05そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、15:06家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。15:07言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」15:08「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。15:09そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。15:10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

*1-2。イエスがたとえを語られた状況。百匹の羊は羊飼いにとって単なる所有物ではなく、より大きな家族に属するもの。4。《あなたがたの中に》は、聞き手に自分の事柄として考えるよう訴えている。但し、羊飼いは神を表すイメージとして用いられている。さらにメシア・イエスのイメージとして。5-6。《見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて》喜びを共にしてほしいと願う。7。しかも、《悔い改める一人の罪人》は《悔い改める必要のない九十九人の正しい人》よりも大きな喜びが天にあると、社会的価値判断を逆転させる。これら《正しい人》がファリサイ派の人々や律法学者たちを指すとすれば、そこにはイエスの皮肉が込められている。ルカが強調する悔い改めは断食したり、悲しんだりすることより、喜びである。涙を流すとすれば、喜びの涙である。
*8。《ドラクメ銀貨》デナリオンと等価で一日の労働賃金に相当する。十ドラクメの蓄えをもつ女性が見失った一ドラクメを見つけだすまで、諦めず捜す。《ともし火をつけ》窓のない家を想像させる。
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2011年07月03日

7月3日 力尽きる時に

力尽きる時に
ルカ福音書 8章40-56節

8:40イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。8:41そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。8:42十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。8:43ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。8:44この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。8:45イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。8:46しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。8:47女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。8:48イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」8:49イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」8:50イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」8:51イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。8:52人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」8:53人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。8:54イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。8:55すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。8:56娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。

*40-42a会堂長。会堂(シナゴーグ)の管理運営責任者であり、後期ローマ時代には会堂を中心とした地域社会の行政の長を兼ねることもあった。社会的地位のある彼が危篤状態の一人娘のために《イエスの足もとにひれ伏して》、救いを懇願する。*42b-48《出血》は彼女を「祭儀的に不浄」(レビ15:19-31)とした。それゆえ、病気そのものは伝染性でなくても、不浄は伝染するものとされ、地域社会から孤立して生活し、結婚することもできなかった。44《後ろからイエスの服の房に触れると》イエスを取り巻いている群衆に触れながら、さらにイエスの服に触れるのは、いずれも律法違反の行為。47《女》はイエスの透視力に恐れつつ、行為と身に起こったことを告白。それは彼女の信仰告白でもあった。
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2011年06月26日

6月26日 理想的な信者の生活

理想的な信者の生活
使徒言行録 2章37-47節

2:37人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。2:38すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。2:39この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」2:40ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。2:41ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。2:42彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。2:43すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。2:44信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、2:45財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。2:46そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、2:47神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

*37-42。悔い改めと洗礼の勧告。38-39。ペトロは@悔い改めAイエス・キリストの名による洗礼の勧告B罪の赦しC聖霊の賜物を約束する。この約束は《あなたがた》ユダヤ人にも《遠くにいるすべての人》異邦人にも与えられる。41節でペトロの説教は終わる。42。原始教会の理想的な敬虔が描かれている。@使徒の教えは3−4章A交わりは、「援助」「奉仕」「施し」による交わりBパン裂きは、共同の食事で、愛餐と聖餐が一緒になっていた原始教会の理想的な食事C祈りはユダヤ教の敬虔の一つ。
*43-47。信者の生活。この箇所は、42節とともに、原始教会で行われていた理想的な信者の生活を報告するルカの「まとめの句」で4:32-35の「まとめの句」に並行している。47。《主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた》とは、教会の創立者は主であることの宣言である。
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2011年06月19日

6月19日 教会が語ること

教会が語ること
使徒言行録 2章22-36節

2:22イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 2:23このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 2:24しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 2:25ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。 2:26だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。 2:27あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。 2:28あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』 2:29兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。 2:30ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 2:31そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、
その体は朽ち果てることがない』と語りました。 2:32神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 2:33それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 2:34ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。 2:35わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』 2:36だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

*22-24。イエス証言の陳述 22。「奇跡と不思議な業としるし」。これらの語は、一般的に<奇跡>といわれ、驚き、狼狽などを引き起こす現象である。イエスの奇跡行為は、彼が神から遣わされた認証である。23。イエスは神の計画によって、あなたがたユダヤ人に引き渡されたが、あなたがたは彼を殺害した。24。しかし神は、彼を「死の苦しみ」から解放させられたので、ルカによる福音書には、マルコ15:34の「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」がない。イエスが死と同時に「楽園にいる」(ルカ23:43)からである。
*25-36。イエス証言の論証。 25-28。詩編16:8-11からの引用はイエスの「死の苦しみ」からの解放、つまり彼の復活の論証となり、31bc詩編16:10からの引用も「キリストの復活」の論証となる。34cd詩編110:1からの引用は「神の右に上げられ」た高挙者キリストの論証となる。こうして、高挙のメシアは父から受けた約束の聖霊を注ぐ。これが多言奇跡・異言の説明である。36。ペトロ説教の結論。あなたたちユダヤ人はイエスを十字架につけて殺したが、神は彼を「主とし、またメシアとなさった」。イエスは誕生に際して「主メシア」(ルカ2:11)と呼ばれ、洗礼の時に神の「子」(ルカ3:22)と言われ、復活によって神の「子」(13:33)と証明され、高挙によって「主、メシア」と認証されたのである。
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2011年06月12日

6月12日 激しい風の音

激しい風の音
使徒言行録 2章1-11節

2:01五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:02突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。2:03そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。2:04すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。2:05さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、2:06この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。2:07人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。2:08どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。2:09わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、2:10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、2:11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

*旧約では聖霊の降臨は、神の預言の成就であるが、ルカ文書では復活の主の約束の成就である。聖霊が降り、原始教会が設立される。一同は聖霊に満たされ、かつてはディアスポラ出身、当時はエルサレム在住のユダヤ人やユダヤ教への改宗者たちに、神の偉大な業を語った。*2-3.。「風」「炎」「現れ」は旧約では具体的な神顕現の意。「風」はその同義語「霊」の降臨を、「舌」はその同義語「言葉」を予期する。*「五旬祭」はギリシア語「ペンテーコステー」(「第50」の意)。
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2011年06月05日

6月5日 生きる力・復活

生きる力・復活
マタイによる福音書 28章16-20節

28:16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 28:17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 28:18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 28:19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 28:20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


*物語の場面はガリラヤに移る。ここでのガリラヤは4:15と対応し異邦人伝道の開始点としての意味をもつ。ユダの自殺によって弟子たちは11人となったが、彼らはそろってイエスから指示された「ガリラヤ」に赴いた。*17。イエスに会って「ひれ伏した」弟子たちは、一方で「疑う者」であった。「ひれ伏し」は礼拝を意味する語である。また疑ったのは彼らの一部というより、原文では、全員が礼拝しつつ同時に疑いを持つ者であったと解し得る。
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2011年05月29日

5月29日 信仰に報いる主

信仰に報いる主
ルカによる福音書 7章1-10節

7:01イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。 7:02ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。 7:03イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。 7:04長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。 7:05わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」 7:06そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 7:07ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 7:08わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 7:09イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」 7:10使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。


*「百人隊長」5、9節から見て異邦人、ヘロデアンティパスあるいはピラトに仕える百人隊の隊長で、千人隊長に次ぐ地位の職業軍人。*3―5節はマタイ版にはなく、たぶんルカが設定した状況。*6―8節。イエス一行が家に近付くと、百人隊長は再び人を遣わす。「わたしも権威の下に置かれている」彼の言葉は部下に対して権威をもつ。このことで、イエスと彼の言葉の権威への信頼を告白している。
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2011年05月22日

5月22日 わたしが選んだ

わたしが選んだ
ヨハネによる福音書 15章12-17節

*15節。奴隷は仕事の理由付けも目的も知らされないままに仕事をしなければならない。主人に強制され道具として用いられる。弟子たちはここで何のためにイエスが彼らを必要とされたかを知っているものとして自発的な、自由な奉仕をするのである。*1ヨハネ3:16はこの13節の聖句を正しく解釈し、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」と記している。
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2011年05月15日

5月15日 イエスの問い

イエスの問い
ヨハネによる福音書 6章34-40節

 永遠の命を与えられるということは、イエスにおける新しい創造によって「神の似像」を回復し、人格性を取り戻すことである。それは人間の自由と責任との関係に関わっている。*群衆の願いに対するイエスの答えは単純ではない。イエスを命のパンだと信じるか否か、という人格的応答性が問われているのである。信じなければ命のパンを得ることにならないのである。
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2011年05月08日

5月8日 よく見なさい

よく見なさい
ルカによる福音書 24章36-43節

エマオの道で復活のイエスに出会った二人の弟子は、主のお姿が見えなくなった後、急いでエルサレムに戻る。そして11人とその仲間が集まっている所に行った。そこで自分たちに起こったことを報告した。そんな所に復活のイエスが来てくださった。しかし、復活のイエスに出会ってもなお、彼らは亡霊を見ているのだと思った。

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2011年05月01日

5月1日 ルカによる福音書 24章13-35節

ルカによる福音書 24章13-35節

墓が空であったという報告を聞いた者たちは、喜びをもって主のよみがえりを信じたのかというと、どうもそうではないようだ。何か不思議なことが起きているのではないかとの思いはあったかもしれないが、それが喜びあふれる復活信仰へと向かわなかった。復活されたイエスが彼らと出会ってくださるまでは。今日のみ言葉に出てくる二人の弟子は、12使徒ではなかった。
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