2012年04月22日

3月25日 時が来た

時が来た
ヨハネによる福音書 12章20-36節

12:20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 12:21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。 12:22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。 12:23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。 12:24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 12:25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 12:26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 12:27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 12:28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」 12:29そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。 12:30イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。 12:31今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。 12:32わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 12:33イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。 12:34すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」 12:35イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。 12:36光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。

イェスの噂は他の地方にも届いていた。この話にでてくるギリシャ人は何とかイェスと会ってみようと仲介してくれる人を捜し、頼み込んでいる。そうしなければならないほどイェスの周りに多くの人が集まっていたのであろうか。私はここでイスラエルの民以外の人がイェスに会おうとしていること、そしてイェスがそのことを受けて「時が来た」と語っていることに注目したい。当時一部族の宗教であったユダヤ教が他の民族をも対象とするものに変わった事がここから始まっていると感じられる。
なんとかしてイェスと出会いたいというこの思いを私ももち続けたいものだ。
                               (BY deacon I.N.)
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3月18日 香油を注がれた主

香油を注がれた主
ヨハネによる福音書 12章1-8節

12:01過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。 12:02イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。 12:03そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 12:04弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。 12:05「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 12:06彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。 12:07イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。 12:08貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

ユダヤの民にとって油を注ぐと言うことは大きな意味があります。ユダヤの国の最初の王であるサウル王は預言者サムエルによって油を注がれました。もっと時代を遡れば出エジプト記に「アロン(モーセの兄)とその子に油を注ぎ聖別し祭司とせよ」とあります。油を注がれたものは聖別されたものであり、王も油を注がれたものなのです。マリアは非常に高価な油(現在の価値で言えば300〜500万円程度)でイエスの足をぬぐっています。これだけ高価な油を用意できたことからもラザロの家は決して貧しいことはなかったと思いますが、普通はびっくりしますよね。でも、この行為は重要だったと思うのです。イエスは当時低く見られていた女性によって聖別された。イエスを本当に必要としていたのは、そしてイエスを主と崇め、自分の出来る最高のもてなしをしたのは虐げられた人々であったのです。
                                   (BY deacon I.N.)
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3月11日 救い主から離れず

救い主から離れず
ヨハネによる福音書 6章60-71節

6:60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」6:61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。6:62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。6:63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。6:64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。6:65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」6:66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。6:67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。6:68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。6:69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」6:70すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」6:71イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

本日の聖書箇所はその前の部分を知らなければ何のことか分からないでしょう。この前の部分ではイェスは自分のことを「天から降って来た生きたパン」と言い、自分の肉を食べ、血を飲まなければ救われないと語っています。そしてモーセがイスラエルの民と荒野の放浪していたとき天から与えられた「マンナ」よりもこの「生きたパン」が良いと言っているのです。自分たちの祖先が神から与えられて命を繋ぎとめたものを悪く言われユダヤの人々は憤慨します。しかもそれより自分の肉と血が上だと言われたのです。イェスの弟子達の中にもこの騒ぎは広がっていきます。イェス本人を目の前にした状態でその肉や血といわれたら弟子達も理解出来なかったのでしょう。
今、私たちは聖餐に於いてパンとぶどう酒をイェスの肉と血として受けています。イエスの存在を自分の血や肉として受け容れることがイェスと離れないことなのではないでしょうか。
                                 (BY deacon I.N.)
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3月4日 救い主への信仰

救い主への信仰
列王記下 6章8-17節
ヨハネによる福音書 9章13-41節

6:08アラムの王がイスラエルと戦っていたときのことである。王は家臣を集めて協議し、「これこれのところに陣を張ろう」と言った。6:09しかし、神の人はイスラエルの王のもとに人を遣わし、「その場所を通らないように注意せよ。アラム軍がそこに下って来ている」と言わせた。6:10イスラエルの王は神の人が知らせたところに人を送った。エリシャが警告したので、王はそこを警戒するようになった。これは一度や二度のことではなかった。6:11アラムの王の心はこの事によって荒れ狂い、家臣たちを呼んで、「我々の中のだれがイスラエルの王と通じているのか、わたしに告げなさい」と言った。6:12家臣の一人が答えた。「だれも通じていません。わが主君、王よ、イスラエルには預言者エリシャがいて、あなたが寝室で話す言葉までイスラエルの王に知らせているのです。」6:13アラムの王は言った。「行って、彼がどこにいるのか、見て来るのだ。わたしは彼を捕らえに人を送る。」こうして王に、「彼はドタンにいる」という知らせがもたらされた。6:14王は、軍馬、戦車、それに大軍をそこに差し向けた。彼らは夜中に到着し、その町を包囲した。6:15神の人の召し使いが朝早く起きて外に出てみると、軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。従者は言った。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」6:16するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、6:17主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。

9:13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。9:14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。9:15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」9:16ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。9:17そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。9:18それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、9:19尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」9:20両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。9:21しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」9:22両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。9:23両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。9:24さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」9:25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」9:26すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」9:27彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」9:28そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。9:29我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」9:30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。9:31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。9:32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。9:33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」9:34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。9:35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。9:36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」9:37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」9:38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、9:39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」9:40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。9:41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

見るということは人間が情報を得る手段としては非常に大きいものです。聖書にはしばし目や耳の不自由な人が描かれています。当時の世界では病や障害は神からの罰(罪の報い)として考えられていたこともあり、彼らは非常に虐げられた存在でした。彼らが癒されるということは罪を赦されると言うことであり、ファリサイ派の人々や祭司長からすると信じられないことだったのでしょう。自分の理解の範疇を超えたものとであったとき、それをなかなか受け容れられず、なんとか自分の常識の中に押さえ込もうとしてしまいます。それができない時はその出来事を拒絶してしまうものです。
現代に生きる私たちも、自分たちの常識からはずれたことをなかなか理解できません。正に「見えていない」状態なのです。イェスによって見えるようになること、それを受け容れられるようになることができますように。
                                 (BY deacon I.N.)
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2月26日 荒れ野の誘惑

荒れ野の誘惑
出エジプト記 17章3-7節
マタイによる福音書 4章1-11節

17:03しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」 17:04モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、 17:05主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。 17:06見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。 17:07彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

4:01さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。4:02そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。4:03すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4:04イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」4:05次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、4:06言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」4:07イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。4:08更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、4:09「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。4:10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」4:11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

*受難節第1主日にマタイによる福音書に記されている荒れ野での誘惑のところを読む。*イエスは荒れ野で誘惑する者(悪魔)から三つの誘惑を受ける。第一の誘惑は空腹という状況において、人を本当に生かすものは何か、と言う問題。第二の誘惑は神を試すこと。それは神への信頼そのものを試す問題。利用の関係は信頼関係を壊すもの。第三の誘惑は十戒の第一項への挑戦。
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2月19日 無駄にならない恵み

無駄にならない恵み
申命記  8章1-6節
ヨハネによる福音書 6章1-15節

8:01今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。8:02あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。8:03主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。8:04この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。8:05あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。8:06あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。

6:01その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。6:02大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。6:03イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。6:04ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。6:05イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6:06こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。6:07フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。6:08弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。6:09「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」6:10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。6:11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。6:12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。6:13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。6:14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。6:15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

*「5000人に食べ物を与える」という話は四つの福音書に記されている。*イエスはなぜフィリポを試そうとされたのだろうか。またアンデレはなぜイエスとフィリポの会話を聞いていて、大麦のパン五つと魚二匹を持った少年をイエスのところに連れてきたのだろうか。そしてなぜ「こんなにも大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言ったのだろうか。この場面でわたしだったらどうするだろうか。たぶん何もしないだろう。*イエスがここで弟子たちに、人間的な考えかたや見かた、それを超えることを言葉だけでなく、具体的に体験を通して教えてくださった。あふれるばかりの恵みが満腹感と共に12の籠に集められた残ったパン屑、目でも重さでも身体全体で感じられたであろう。
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2月12日 いやすキリスト

いやすキリスト
ヨハネによる福音書 5章1-18節

5:01その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。5:02エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。5:03この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。5:04*彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。5:05さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。5:06イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。5:07病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」5:08イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」5:09すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。5:10そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」5:11しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。5:12彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。5:13しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。5:14その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」5:15この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。5:16そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。5:17イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」5:18このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

*ベトザタの池でのいやしが安息日の労働規定違反の問題になり、そしてユダヤ教とキリスト教が決裂する「神の子」理解の問題へと進む。*イエスにいやされた人の生きかたの問題性(いやされ、忠告されたのにイエスを拒む罪を犯してしまった)が示されるが、それは私たちにも問われることでは。*ユダヤ人の敵意が殺意に変わるとき。自分を神と等しい者と宣言するイエスをユダヤ教の唯一神信仰から認められないユダヤ人たち。その彼らを安易に批判することは出来ないのでは。
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2月5日 真理は自由をもたらす

真理は自由をもたらす
ヨハネによる福音書 8章21-36節

8:21そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」8:22ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、8:23イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。8:24だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」8:25彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。8:26あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」8:27彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。8:28そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。8:29わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」8:30これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。8:31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。8:32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」8:33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」8:34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。8:35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。8:36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

『自由』という言葉に私たちは何を感じるでしょうか。辞書で自由という言葉を調べてみると「自分の意のままに行うこと」「勝手気ままなこと」「他から強制・拘束・妨害などを受けないこと」「自主的、主体的に自己自身の本性に従うこと」とあります。元々『自由』と言う言葉にはプラスのイメージとマイナスのイメージの意味があったと言えるでしょう。
自分勝手なことをおこなっている状態は(本人は)自由だと思っているのですが、実は罪にとらわれた状態なのでしょう。イェスはそれは本当の意味での自由ではないと語っているのです。イェスの行動は神に囚われており人によっては自由のない生き方のように思えます。しかし旧約の時代から神は人々のすることをその力を持って強制することはありませんでした。人の意思を尊重しているのです。(その結果、よく人は道を誤り、罪を犯し、その報いを受けてはいるのですが)本当に神の意思を知ったとき人は自由になれる。イェスが歩んだ道程を私も歩んで行けたらと感じる。

                                   (BY deacon I.N.)

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2012年01月29日

1月29日 イェスはよく知っておられる

イェスはよく知っておられる
列王記上 8章22-30節
ヨハネによる福音書 2章13-25節

8:22ソロモンは、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして、8:23祈った。「イスラエルの神、主よ、上は天、下は地のどこにもあなたに並ぶ神はありません。心を尽くして御前を歩むあなたの僕たちに対して契約を守り、慈しみを注がれる神よ、8:24あなたはその僕、わたしの父ダビデになさった約束を守り、御口をもって約束なさったことを今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。8:25イスラエルの神、主よ、今後もあなたの僕ダビデに約束なさったことを守り続けてください。あなたはこう仰せになりました。『あなたがわたしの前を歩んだように、あなたの子孫もその道を守り、わたしの前を歩むなら、わたしはイスラエルの王座につく者を断たず、わたしの前から消し去ることはない』と。8:26イスラエルの神よ、あなたの僕、わたしの父ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。8:27神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。8:28わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。8:29そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。8:30僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。

2:13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。2:14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。2:15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、2:16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」2:17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。2:18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。2:19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」2:20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。2:21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。2:22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。2:23イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。2:24しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、2:25人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

イスラエルの民がバビロニアの捕囚からエルサレムに還った後に再建した神殿はソロモン王が建てた神殿と比べると、比べるのも恥ずかしくなるくらい見劣りするものであった。昔の神殿を知る民からすれば自分たちのバックボーンが頼りないものと思えてしまう感があったのだろう。以来この神殿を何とかしたい、かつての荘厳な神殿をもう一度という思いがイスラエルの民の中にあったと想像される。ユダヤの王であることを人民にアピールしたいヘロデ王にとって神殿再建は有効な政策であったのでしょう。紀元前20年くらいから始まったこの神殿再建は今回の物語の時点ですでに46年の歳月がたっており、ユダヤの民にとってこの神殿を壊すことは到底出来ることではなかった。しかしイエスはその神殿を壊せという。人が自分たちの拠り所とするものを一度壊し、そこに新たな神殿=イエスを建てることが必要だとヨハネは私たちに語りかけてくる。
現代に生きる私たちも本当にイエスに拠り頼む生き方が出来ているのであろうか。
                           (本日の説教より感じた事です)
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2012年01月22日

1月22日 宣教の開始

宣教の開始
ヨハネによる福音書 2章1-11節

2:01三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2:02イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。2:03ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。2:04イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」2:05しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。2:06そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。2:07イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。2:08イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。2:09世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、2:10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」2:11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

*ヨハネによる福音書によればイエスの公的活動はこの「カナの婚礼におけるぶどう酒の奇跡」をもって開始する。*今日のところでは「三日目に」、「わたしの時」、「弟子たちはイエスを信じた」という言葉と、水がぶどう酒に変わる奇跡(「最初のしるし」)が示すことに注目したい。*11節の結論部分、「しるし」「栄光」「信仰」。しるしは、信仰の目をもって見る者に受肉者キリストの栄光を示しだす。信仰はその目をもって受肉者のしるしの中にその栄光を見つつ、信仰から信仰へと進む。
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2012年01月15日

1月15日 最初の弟子たち

最初の弟子たち
ヨハネによる福音書 1章35-42節

1:35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。1:36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。1:37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。1:38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、1:39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。1:40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。1:41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。1:42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

*今日のところでは「見る」という言葉(これは原語では四つの言葉を用いている)と「泊まる」という言葉(原語では「留まる」の意味)に注目したい。「見る」ということは、肉眼で見るとか、表面的な意味で見ることと、真に見ることとは区別されている。ここでは「見る」ことが強調されているが、20:29では、「見て信じる」ことより、「見ないで信じる」ことが大切だとされている。
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2012年01月08日

1月8日 わたしに近づく神

わたしに近づく神
ヨハネによる福音書 1章29-34節

1:29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。1:30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。1:31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」1:32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。1:33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。1:34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

*29.《神の小羊》は、特に《世の罪を取り除く》という形容詞を伴っている。過越祭の中で小羊が担わされている事柄は、かつて出エジプトの時に小羊の血が鴨居に塗られ、神の怒りがイスラエルの先祖たちのテントを過ぎ越したところから、人間の罪を贖う力を象徴していると理解される。《見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ》イエスの十字架の贖罪によって世と世に属する人々が救われることが伝統的な小羊という語との関連で宣言されている。
*30.キリスト証言に続く《「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」とわたしが言ったのは、この方のことである。》は、明らかに15節を指し、キリストの先在性に触れ、言が受肉したのはナザレ人イエスであることを裏書している。                (「新約聖書注解」より)
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2012年01月01日

1月1日 神を示すひと

神を示すひと
ヨハネによる福音書 1章14-18節

1:14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。1:15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」1:16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。1:17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。1:18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。


*この福音書においては、ナザレ人イエスを神と告白することが究極の目的であり、読者達がこの福音書を読了した時には、20:28のトマスと共に《わたしの主、わたしの神よ》と告白することに至ることが期待されているのである。   (「新約聖書注解」より)
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2011年12月25日

12月25日 光を放つ言葉

光を放つ言葉
ヨハネによる福音書 1章1-14節

1:01初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:02この言は、初めに神と共にあった。1:03万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:04言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:05光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。1:06神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。1:07彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。1:08彼は光ではなく、光について証しをするために来た。1:09その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。1:10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。1:11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。1:12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。1:13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。1:14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

*1:1-18最も短いイエス伝と呼ばれる9節から12節を内に含みつつ、この福音書がナザレ人イエスの生涯をどのような視点から描こうとしているかをあらかじめ示すための重要な序文である。               (「新約聖書注解」より)
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2011年12月18日

12月18日 見えてくる神のわざ

見えてくる神のわざ
ルカによる福音書 1章57-66節

1:57さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。1:58近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。1:59八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。1:60ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。1:61しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、1:62父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。1:63父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。1:64すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。1:65近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。1:66聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。

*ここの場面は常にザカリアへの天使の予告を念頭において理解するのが望ましい。割礼は神の契約の慈しみのしるしだが、ここでは特にその具体化の一つとしてのエリサベトへの慈しみ(58)のしるしである。ここでの文学的技巧は、母が命名しようとして、しかもその名が母に知らせていないはずのザカリアの思う名と一致したという不思議さに重点がある。人々の驚きはこれにある。誕生と名付けは大事件であることがこの二重の不思議さと二重の驚きによって強調される。これはヨハネの使命にかかわることであり、人々はヨハネの将来の運命を尋ねるのである。その使命は《この子には主の力が及んでいたのである》という表現によって、80節を準備し、これは2:40および52節の記述の先触れとなる。               (「新約聖書注解」より)
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2011年12月11日

12月11日 荒れ野の声

荒れ野の声
ヨハネによる福音書 1章19-28節

1:19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、1:20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。1:21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。1:22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」1:23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」1:24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。1:25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、1:26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。1:27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」1:28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

*19-20「あなたはどなたですか」という問いは、本来はキリスト論的問いであり、イエスに対して向けられるべき問いであるが、第4福音書では、この問いがまずヨハネに向けられている。それは洗礼者ヨハネをメシアとする人々があったからだと想定され、ヨハネの口を通して否定させていると考えられる。それは最初の読者たちにとってはこの問いを正しくイエスに向けさせるために必要なことだったのだろう。22-23ヨハネがメシアでないことは自らの口で否定した。そこでユダヤ教当局者に回答するために遣わされた人たちはヨハネに自己規定を求めている。それは一世紀末のヨハネ福音者が書かれた状況において必要だったのである。ヨハネはイザヤ書40:3を用いて自分を「荒れ野の声」としている。               (「新約聖書注解」より)
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2011年12月04日

12月4日 見たこともない神を信じる

見たこともない神を信じる
ヨハネによる福音書 5章31-40節

5:31「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。5:32わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。5:33あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。5:34わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。5:35ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。5:36しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。5:37また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。5:38また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。5:39あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。5:40それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

*聖書に関して第4福音書記者は、この《聖書はわたしについて証しするものだ》とイエスに言わせている。39節《聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している》にもかかわらず、《父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じない》、《あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない》と指摘されているように、問題は聖書を読む者の側にある。38節《あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである》。不信仰は具体的には、聖書を読んでも、その内容を受け入れないことにある。《あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証をするものだ》ということになる。言い換えれば聖書の証言はそれだけでは有効に力を発揮できず、御霊即ち、神の霊の働きによって初めて証言としての働きをなすのである。
(「新約聖書注解」より)
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2011年11月27日

11月27日 神が定められる時

神が定められる時
ヨハネによる福音書 7章25-36節

7:25さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。7:26あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。7:27しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」7:28すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。7:29わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」7:30人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。7:31しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。7:32ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。7:33そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。7:34あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」7:35すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。7:36『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

*エルサレムの住民のイエスに対する不安は、彼がメシアかどうかに関わっている。ユダヤ教が抹殺しようとしているイエスが真にメシアか、という問はイエスの生前にも、一世紀末のこの福音書の最初の読者の状況でも、共通した課題であった。34節。見つけることも来ることもできない神のみもとがイエスの出生の場所であるとの開示。
(「新約聖書略解」より)
*イエスが放置されていることについて、この議員たちも《この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか》(26)という問いかけがされている。この問いは、そのまま肯定につながるのではなく、32節以下ではイエス逮捕のために祭司長たちとファリサイ派の人々は《下役たちを遣わした》。しかもエルサレムの人々もイエスのメシア性を容認しているわけではない。27節。人間が自己の知識を誇り過信するとイエスについての判断を誤ることになる。
    (「新約聖書注解」より)
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2011年11月20日

11月20日 この世には属さない国

この世には属さない国
ヨハネによる福音書 18章28-40節

18:28人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。18:29そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。18:30彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。18:31ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。18:32それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。18:33そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。18:34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」18:35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」18:36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」18:37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」18:38ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。18:39ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」18:40すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

*ローマ総督の普段の駐屯地は、カイサリアであるが、ユダヤ人の祭りの際には、騒動を防止するために、エルサレムに駐在したのである。ピラトは、紀元26年から36年まで、ユダヤ、サマリア、イドマヤを統治した人物である。新約聖書の記述によれば、優柔不断な統治者という印象を与えられるが、その実像はかなり高圧的にユダヤ人に対処した人物であった。*28-31 ユダヤ人たちは《明け方》に、イエスを総督官邸に連れて行ったが、官邸内には入らなかった。異邦人に接触することを避けたのである。すなわち《汚れないで過越の食事をするためである》(28)。中に入ろうとしないユダヤ人に対して、ローマ総督ピラトは外に出てきて、イエスの罪状をめぐって、押し問答をする(29-30)。*33節から、ピラトによるイエスの尋問が開始される。ピラトにとって重要なことは、イエスが《ユダヤ人の王なのか》どうかということである(33)。すなわち、ユダヤに頻繁に見られたローマ帝国に反旗をひるがえす政治的メシア運動の首謀者かどうかということである。イエスはそれに対して、ピラトが自分の判断でそう言うのか、他人(ユダヤ人)の言葉に動かされてそう言うのかを問いただす(34)。しかし、ピラトは、早急に決着をつけるために、イエスが《何をしたのか》を知ろうとする(35)。
    (「新約聖書注解」より)
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2011年11月13日

11月13日 人間を生かすかて

人間を生かすかて
ヨハネによる福音書 6章22-35節

6:22その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。6:23ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。6:24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。6:25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。6:26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。6:27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」6:28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、6:29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」6:30そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。6:31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」6:32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。6:33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」6:34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、6:35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

*群衆は肉体の糧を求めているに過ぎないが、イエスが与えようとしているのは永遠の命に至る食物である。永遠の命を得るためには律法を守ることが常識であった群衆は、《神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか》と問う。*独り子なる神イエスを信じる以外に永遠の命を得る可能性はない。人間にできることは信じることのみである。群衆は信じるためにしるしを求める。*彼らは出エジプトのときの荒れ野の旅を想起し、彼らの先祖はマナやうずらの奇跡(出16:4-36)によって信じたと考え、同じことをイエスに要求する。イエスはモーセがマナを与えたのではなく神が与えたのだと言い、彼は第二のモーセではなく、命のパンそのものだと宣言する。     (「新約聖書略解」より)

posted by MATSU at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 2011年度10〜3月 | 更新情報をチェックする
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