2012年06月17日

5月20日 いのちの流れの発見

いのちの流れの発見
ヨハネによる福音書 7章32-39節

7:32ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。7:33そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。7:34あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」7:35すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。7:36『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」7:37祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。7:38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」7:39イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

祭りの最高潮の時、だれが<渇いて>いるのでしょうか。 人間の罪というのは「渇いて
いる者はだれでもわたしのところに来るがよい」と言われる主イエスの言葉を殺すことに
よって明確になるのではないでしょうか。
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5月13日 勇気を出して生きられる

勇気を出して生きられる
ヨハネによる福音書 16章25-33節

16:25「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。16:26その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。16:27父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。16:28わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」16:29弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。16:30あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」16:31イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。16:32だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。16:33これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

先週の日課に引き続き弟子達が苦難に出会うことがイェスによって語られています。イェスが示される神はただ甘やかす神では在りません。お願いしたからと言って受けるべき苦難を回避してくれることはありません。苦難のときに共にいてくださる存在です。神頼みだけではダメなのです。神を信じ、より頼み(自らも努力した上で)精一杯生きていくことが必要なのです。結構しんどいですよね。でも「私のもとに来なさい、休ませてあげよう」といってくれたイェスの言葉を信じ、疲れるくらい頑張ってみようかな・・・。
                                   (BY Deacon I.N.)
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5月6日 証しする群れ

証しする群れ
ヨハネによる福音書 15章18-27節

15:18「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。15:19あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。15:20『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。15:21しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。15:22わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。15:23わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。15:24だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。15:25しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。15:26わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。15:27あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

教会がこの世に存在する意義とは何か、と問われたらどう答えますか。教会は礼拝する所であり、宣教の拠点となるところです。そこに集う人は神を礼拝し、宣教の業を行わなければなりません。イェスは神の言葉を述べ伝え、弟子たちはそのイェスを証しする。それはイェスが弟子たちを選ばれた時にすでに決定付けられたことなのです。しかし、当時の世界はイェスを受け入れなかった。当然弟子たちも受け入れられずに多くの苦難に遭遇します。しかし、その弟子達から始まる多くの先達たちにより、今イェスの業は多くの人の信仰を集めています。(イェスの知名度で言えば、世界中の殆どの人が知っていると言っても言えるくらいです)しかし、今の時代が当時のユダヤの国と比べて神の支配が満ちているかと言われれば疑問符が浮かんできます。わたしたちは今何を伝えていくべきなのか。イェスが行った業を今一度思い起こす時としたい。
                                  (BY Deacon I.N.)
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4月29日 わたしに従いなさい

わたしに従いなさい
ヨハネによる福音書 21章15-25節

21:15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。21:16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。21:17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。21:18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」21:19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。 21:20ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21:21ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。21:22イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」21:23それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。21:24これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。21:25イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

ヨハネによる福音書は、やはり他の福音書とは一味違う。他の福音書は普通にイェスの昇天、弟子たちの宣教のスタートで終わっています。ヨハネによる福音書ではその筆者がイェスに愛された弟子であり、書かれている内容は真実であり、もっともっとイェスのなさったことは沢山あるよということで終わっています。文面からも近しい人への報告みたいな感じです。まぁ、福音書は多くの人にイェスのことを知ってもらおうという思いで書かれたのですから、最後にもっといろんなことをしていたんだよ、と書いてあったほうが多くの人の興味を引けるということもあるかもしれません。
聖書は多くの記事を集めて成立しています。現在の聖書がどのような課程を経て編集されたかをしっかりととらえて、何を伝えようとしているかをしっかりと感じ取りたい。
                               (BY Deacon I.N.)
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4月22日 復活の主の愛に生きる

復活の主の愛に生きる
ヨハネによる福音書 21章1-14節

21:01その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。21:02シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。21:03シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。21:04既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。21:05イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。21:06イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。21:07イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。21:08ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。21:09さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。21:10イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。21:11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。21:12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。21:13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。21:14イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

この聖書箇所の前の部分(先週の日課)でイェスは弟子達の前に姿を現し、弟子達もそれを信じている。しかし、しかしである。折角イェスが復活して現れているのに弟子達の取った行動がこれである。復活と言う驚愕の事実(神の業)を前にしても弟子たちは、まだ宣教の行動を起こしていない。これをどう考えればいいのか。宣教ではなく日常の生活(漁に出る)をおこなう弟子達、しかしその結果は成果がない。そこへイェスが現れその言葉どおりにすると魚が網いっぱいに取れた。ただ日常生活を送っているだけではダメということなのだろうか。
自分を振り返ってみる。イェスの復活を信じているか・・・。信じていると思っている。では、そのことを中心に置いて生活しているか・・・。していない!?。あぁ、弟子たちと何も変わらないではないか。弟子たちは三度の出会いの後、宣教へと出て行く。私は一体何度出会うまで留まっているのだろうか。
                          (BY Deacon I.N.)
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4月15日 復活の主を見て

復活の主を見て
ヨハネによる福音書 20章19-31節

20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。20:21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」20:22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」20:24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。20:25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」20:26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」20:28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。20:29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」20:30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。20:31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 ヨハネ福音書が、そう記してはいないのですが、福音書が人々の目に触れるようになってから、ずいぶん早い時期に、トマスのことを「疑い深いとマス」と呼ぶようになったようです。12弟子の中で一番疑い深い。疑い深いというのは、信仰が弱いということです.しかし、疑い深いのはトマスだけでしょうか。わたしたちがトマスの立場におかれたら、どう行動するでしょうか。わたしたちも復活の主にお会いしたいと思うでしょうし、会って信じたいと願っているのではないでしょうか。ただ人の言葉を聞いているだけでは、どうも納得できないのではないでしょうか。
 復活された主の肉体は、傷ついたままの肉体でした。その復活された主に会ったトマスは、その傷を見たとき、傷に触れることなく、思わずひざまずいて告白せざるを得なかったのでしょう。
 一番疑い深い、一番信仰が弱いトマス、そのトマスが、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白することができ、そこに教会の信仰の告白の歴史が始まったといえるのです。
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4月8日 復活の主にお会いして

復活の主にお会いして
ヨハネによる福音書 20章1-18節

20:01週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。20:02そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」20:03そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。20:04二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。20:05身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。20:06続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。20:07イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。20:08それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。20:09イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。20:10それから、この弟子たちは家に帰って行った。20:11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、20:12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。20:13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」20:14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。20:15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」20:16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。20:17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」20:18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

マリアから墓が空になっていることを聞いたとき弟子たちはどういう思いであったのであろうか。ヨハネによると、この時点ではペトロ達はイェスの復活を理解していないと記述しています。では、空になった墓を見て、ペトロは何を思ったのでしょうか、そしてもう一人の弟子はその情況で何を信じたのでしょうか。たぶん彼らは墓が空になっているという事実だけを理解したのでしょう。そこにはマリアが抱いたような悲しみもなく、ましてや、イェスが復活したかもと言うようなことは微塵も思っていなかったのでしょう。
一般的に考えた場合弟子たちの取った行動は自然なものであり、自分が同じような場面に出くわしたとき同様の行動を取ってしまうのではないかと思ってしまいます。彼らの中ではイェスは既に死んでおり、遺体となったイェスが誰かによって持っていかれたという疑問だけが現れています。対してマリアの中でイェスは過去の人ではなく、今もその心の中の多くの部分を占めていたのでしょう。だからイェスは復活後、最初にマリアに現れたのではないでしょうか。
                              (BY Deakon I.N.)
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2012年06月10日

4月1日 十字架への道

十字架への道
ヨハネによる福音書 18章1-40節

18:01こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。18:02イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。18:03それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。18:04イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。18:05彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。18:06イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。18:07そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。18:08すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」18:09それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。18:10シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。18:11イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」18:12そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、18:13まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。18:14一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。18:15シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、18:16ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。18:17門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。18:18僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。18:19大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。18:20イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。18:21なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」18:22イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。18:23イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」18:24アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。18:25シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。18:26大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」18:27ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。18:28人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。18:29そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。18:30彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。18:31ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。18:32それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。18:33そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。18:34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」18:35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」18:36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」18:37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」18:38ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。18:39ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」18:40すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

 ヨハネによる福音書には暫し他の福音書にはない記述があったり、他の福音書にはあるのに割愛されている記述があったりします。これは福音書と言うものが、その筆者の明確な意図によって書かれているものであり、それをあえて4つ並べていることに意味があると思うのです。イェスの生涯をいろいろな角度から見ることで真実に近づけるというような感じでしょうか。
 さて今回の箇所も様々な違いが見受けられます。大祭司が二人登場したり、ペトロ以外の弟子が一緒にイェスの後を追い大祭司の邸宅についていったりしています。今回はその中でも記事の扱いの差について感じたことをひとつ、イェスが捕らえられた後に大祭司の前で行われた尋問とピラトの行った尋問(?)との差です。他の福音書では大祭司の尋問もピラトの尋問も同じ程度の扱いですが、ヨハネによる福音書はピラトとシーンが長いのです。(18:29−19:16)しかも具体的です。イェスの罪を認めたがらないピラト(というか関わりたくない様子)と、なんとかイェスの罪を認めさせようとするユダヤ人のやり取りが細かく書かれています。訴えているユダヤ人はどうしてもローマの法でイェスを死罪にしようとしています。(何故なら当時のユダヤの裁判では死刑は宣告できなかったので、イェスを死罪にするにはローマの法律で裁く必要があったのです)この次の聖書箇所では、イェスを赦すのはローマへの反逆に等しいとまで言ってピラトに詰め寄ります。しかもその時に自分たちの王はカイザル以外にいないとまで宣言して。このようなユダヤの民に対してヨハネは強い憤りを持っていたのでしょうか。ローマの法で裁かれているが、イェスを十字架につけたのはユダヤ人であるという事を強く意識して書かれているように感じます。
                                  (BY deacon I.N.)

posted by MATSU at 15:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 2012年度 4〜9月 | 更新情報をチェックする
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