2011年09月18日

9月18日 主イェスの招き

主イェスの招き
ルカによる福音書 14章7-14節

14:07イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。14:08「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、14:09あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。14:10招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。14:11だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」14:12また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。14:13宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14:14そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

*ここでは宴会に招かれた人々への勧め(7−11)と招く側の人への勧め(12−14)の二つに分けられる。
*7-10 《宴会》は「お祝いの席」というぐらいの一般用語である。イエスは、あらかじめ上席に指定されている人がそこに行くのを批判するのでなく、上席を選びたがる精神を批判する。この精神は裏を返せば人を見下げる精神である。イエスの勧めは生活の知恵であるが、それだけなら、名誉を得るためにわざと末席に座る狡猾さを勧めるようなものである。しかしこの勧めは《たとえ》(7)であり、人間に対する神の態度(11)を示すものである。生活の知恵は一気に神の次元に高められる。
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2010年09月19日

9月19日 見てきたように語り継ぐ

見てきたように語り継ぐ
出エジプト記 12章21-27

ユダヤの新年の祭りの季節に、私たちも続けて「律法の書」からみ言葉に聴く。*この日、「Yom Kippur=贖罪の日」には伝統的にヨブ記が朗読され、大魚の腹の中で回心を遂げた預言者が再び神の示す道を歩む姿に「裁き」と「赦し」の恵みを思う。*今朝の日課は、その「救出=贖い」のもっとも根源的な物語である出エジプトの出来事を、生き生きと、世々代々耐えることなく語り継ぐように、との契約の言葉だ。*神の救いの恵みを、年月がたっても色あせない、「今、ここで」将に実現する恵みの出来事として生々しく体現する場、それが礼拝だ。記念し、物語り、そしてその記憶を、今、ここで生き生きと新たに生きる、信仰の群れでありたい。
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2010年02月28日

2月28日 《家族》ではなく

《家族》ではなく
マルコによる福音書3章20-35節

イエスの家族について触れた福音書の記事は大変少ない。マルコのこの箇所は、その希少な証言の一つだ。*イエスが神の国の福音を説き癒しを行っているその場所へ、「身内の者たち」がやって来て彼を取り押さえようとした、とマルコは記す。「身内」とは誰なのか?イエスには兄弟姉妹がいたことが同じマルコには記されているから、弟(兄?!)たちがやってきたのか?*イエスはこの「身内」に聞こえよがしに「自分の宣教の仲間こそ自分の肉親だ」と言い放つ。*血縁で結ばれた運命共同体を拒絶して、目的を共にする仲間を「肉親」と呼ぶとき、そこには全く新しい繋がりを紡ぎだす信仰共同体の姿が、【家族】ではなく運命を共にする群が指し示される
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2008年06月01日

6月1日 幻を書き記す

幻を書き記す
ハバクク書2章1-4節

「幻を書き記せ/走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ」。*板に書かれた文を「檄(げき)」という。差し迫った状態で、人々に自分の意見を広く知らせ、それを読む人、聞く人に勇気を与え、奮い立たせ、積極的行動を取らせるようにする、そういう文を「檄文」というのだ。*今、板に書き記された神の幻が私たちの間を駆け巡る。疾風怒涛の破壊と横暴、世俗の嘲りや裏切りの只中にも神は居られ、揺るがない、という幻が。*世の只中で信仰の道を歩む私たちへの「檄」は、「永遠の命」の証となられた復活の、そして再臨のキリストという幻なのかもしれない。
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2007年09月30日

9月30日 神の会計管理人

神の会計管理人
ルカ福音書16:1-13

『帳簿の出入りなど目くじら立てたこともなかったがどうもこの管理人に猫ばばされていたらしいな。だがどうだいこの男。会計監査をするといったら証文を書き換えて再就職対策だ。破廉恥も極まると滑稽だな。でもまあ、猫ばばといい証文といい、痛くも痒くもないほどのものだ。今回「富は動かすもの」と肝に銘じたろうから許してやるとするか。』*神はこんな風に独りごち苦笑いしながら私たちをご覧になるのか。
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2007年09月23日

9月23日 こころのつながり

こころのつながり
ルカ福音書15:11〜32

私たちはいずれ気づくことだろう。「もう親はいらない。自分が望むように生きるのだ」との思いが空しく、救いを見出せないことを。そして「私たちは神の愛のうちにあるのだ、永遠に朽ちることのない救いのうちを生きているのだ」ということを。愛は神から与えられる。それは私たちが必死に追い求め、捜し求めるものではない。神さまご自身が与えてくださるものであることを。
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2007年09月16日

9月16日 旅するこころ

旅するこころ
ルカ福音書15:11〜32

一生の内のある時期、私たちは「どこか遠くへ」行きたい、自由になりたいと切望する。この「下の息子」もそんな思いに駆られたのか。「ここ」ではない、「どこか遠く」で大きな世界を体験したい、そこで自分自身を試したい。「自分探し」の旅は大抵そんな風に始まる。*「自分自身」を探してさ迷い、道を踏み外し、何よりその見出した「自分自身」に失望して傷つく私たちを、神はしかし、決して見放さない。*「旅する心」は、私たちが、神に見出され迎えられる喜びを知るために、神が与えてくださったものなのかもしれない。
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2007年09月09日

9月9日 わたしがわたしであるために

わたしがわたしであるために
ルカ福音書14:25〜35

「肉親も、自分の命さえも憎んで、自らの十字架を背負ってついてくるものでなければ私の弟子では有り得ない。」とイエスは言う。全てを捨て、そしてそれら愛すべきものを捨てた、という十字架を背負って、それでもイエスについてくる者だけがイエスの弟子となる、とういことか。*「塩が塩気を保つ」ように、神の前で「私がわたし」であるために、私たちは愛する者・ものと自分とを峻別しただ独り十字架の下に立たされる。その厳しい招きへの備えはあるか、問われる。
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2007年09月02日

9月2日 神の国の祝宴の招待状

神の国の祝宴の招待状
ルカ福音書14:7〜14

「上席を争うな」・「返礼できる人を招くな」という言葉は処世訓か?
イエスは訓話ではなく譬話で語る方だ。イエスの言う「宴席」の光景が「神の国での私たちの祝宴」のたとえだとしたらどうだろう。
神の国の祝宴の主客=キリストはずっと遅れてやってくる。しかし私たちはキリストが不在であっても、その名の故に神の食卓に招かれる。あたかも既にキリストが共に居られるかの様に。そこでは主客の到着への期待に裏打ちされた真の謙遜と、招かれる喜びから湧き出る他者への純粋なもてなしの心だけが求められる。
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2007年08月26日

8月26日 真に従うべき掟

真に従うべき掟
ルカ福音書14:1〜6

「人々はイエスの様子を覗っていた」。安息日の昼下がり。イエスが町の名士の食卓に招かれる。そこにはイエスを罠に掛けて貶め訴えるための仕掛けが張り巡らされている。
これ見よがしに食事の席に侍らされている水腫を患う人。イエスが今度も安息日に癒しを行うのか、そうした場合議員たちはどう出るのか。人々の無責任な好奇の視線の中で、病に苦しむ一人の人間は陰謀の小道具に過ぎない。
だが、イエスにとってはこの人の存在の回復は安息日の本質そのものだ。安息日の平安は命の再生(re-creation)にこそある。
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2007年08月19日

8月19日 ほんとうに大切なこと

ほんとうに大切なこと
ルカ福音書13:10〜17

安息日を守ることはイスラエルの人々にとって最も大切な信仰実践だ。創造の業の秩序に与り、解放された自由な民として神を礼拝し休息する。自分たちだけでなくイスラエルの屋根の下に暮らすものは皆、この日全ての労働のくびきから解放される。
その「聖なる日」に18年の苦痛から解放される女性が物語りの中心だ。ひとりの女性の全人格がこの日に回復された。そのことと引き換えにしてよい「社会秩序」も「民族のプライド」もありはしない。「命こそ宝」なのだから。
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2007年08月12日

8月12日 あかりを灯して

あかりを灯して
ルカ福音書12:35〜48

「待つ」ことは辛い。しかし、私たちキリスト者はその信仰の確信的な行為として「待つ」ことを運命付けられている。しかも、「善く待つ」ことへと召しだされている。
「善く待つ」とは、来るべき事態に備えて身支度と心積もりをし、環境をふさわしく整え、そしてそれらの準備が必ず神に喜ばれる奉仕となることを確信する希望の光をともし続けること。
信号の変わるのも、飲食店で食事が供されるその時間さえ待てないこの時代に、私たちは「善く待つ人」となる・であるように、と呼びかけられている。
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2007年08月05日

8月5日 たった ひとつ

たった ひとつ
ルカ福音書10:38〜42

「マリアはよい方を選んだ。それを取り上げてはならない」。もてなしに奔走するマルタとイエスの足元から動かないマリア。マルタは「悪いほう」を選んだのか?*客人をもてなすことをマルタは選んだ。しかし彼女のもてなしの心はマリアの選択を否定した。「必要なものはたったひとつ」。しかしその「たったひとつ」の選択は一様ではない。奉仕もみ言葉への傾聴も、一心に行うとき、私たちは神に栄光を帰し、真の喜びを得、他者との間に平和を作り出すのではないか。
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2007年07月29日

7月29日 弟子となるために

弟子となるために
ルカ福音書 9:51〜62

「鋤に手を掛けてから。。」というイエスの言葉が胸を突く。日常生活の中で私たちは多くの社会的責任を果たすよう迫られる。そして、どの方面にも「いい人」でいようとして、往々にして自分の魂に関わる一大事を「私的なこと」だからと後回しにする。そうすることが「大人の振舞い」だと信じて。しかしそうではない、とイエスは迫る。魂の在り処を公に、そして自らに対してもはっきり示すこと、それが信仰者の本分だ、と。
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2007年07月22日

7月22日 癒されて道を行く

癒されて道を行く
ルカ福音書 8:1〜3

イエスの時代のユダヤ社会では、公の場で女性の人格が認められることはない。女性は誰かの娘か妻か母であること以外にその存在を守るすべは殆どなく、そのような関係から「自由な女性」は社会的に「危険な」存在だった。
ところが、イエスの周囲にはこうした「自由=危険」な女性が生き生きとした姿を見せる。彼女たちはイエスに自らの「重荷」を取り除いてくれるよう願い、また癒されて後は自らの賜物を用いてイエスの活動に参与した。
イエスの癒しは私たちの身体も、精神も、存在全体をも包み癒し、全人格を生かす。
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2007年07月15日

7月15日 義と愛の主はゆるす

義と愛の主はゆるす
ルカ福音書 7:36〜50

「多く許された者ほど多く愛することができる」とイエスは言う。
「許される」ためには自分が許されるべきだ、との自覚が必要だ。自らの「罪」を知る心は傷ついている。自らの破れに傷ついた心は他者の傷にも敏感だ。だから、多く許されたいと願うものは多く許し、多く愛するようになるのではないか。
愛したから許されるのではない、「許される」恵みを十分に知り、それが義と愛の神から来ることを確信するものがこの女性と同じく、イエスの足元に大胆に進む。
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2007年07月08日

7月8日 ふたたびのいのち

ふたたびのいのち
ルカ福音書 7:11〜17

イエスは、一人息子を失った婦人の慟哭に深く共感して棺の中の息子を生き返らせる。ナインという町の門での出来事だ。
「門」は二つの異なる世界を結ぶ「敷居」の空間だ。生者の領域と葬りの場とを結ぶその場所で、「神は生きておられる」ことが、そしてその生ける神が、その民を深く心に掛けておられることが露になった。
生と死の境界をも越えて働く神の深いcompassionの徴としてこの若者はふたたびのいのちに生きるものとなった。私たちの、この一度のいのちの限界の向う側にもまた、神の新しい時があるのか。
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2007年07月01日

7月1日 神さまの大風呂敷

神さまの大風呂敷
使徒言行録 11:1〜18

その幻は、ある日の昼下がり、燦燦と太陽の降り注ぐ地中海沿いの家の屋上で与えられた。中空に、地上の凡る生き物を包んだ巨大な風呂敷包みが釣り降ろされる。ペトロは空腹であったが、何でも食べるわけにはいかない。神の律法で定められた「清いもの」だけが許されていた。ところが、神ご自身が「清くないものなどない」と宣言される。
今や、神さまの大風呂敷に包まれて、全ての生き物、命あるものは神の領域に生きるものとなった。神さまの大風呂敷から漏れる命はなく、誰もが善い行いに生き、祝福の証人となる。

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2007年06月24日

6月24日 たいせつなあなた

たいせつなあなた
ルカ福音書 15:1〜10

2つの「失せものを探す」譬え。羊を一匹見失った羊飼いと、銀貨を一枚無くしてしまった女性は、「探し物」に全身全霊を傾ける。
しかし、全知全能の神が何かを「見失う」ことなどあるのだろうか?神が私たち人間を見失われた最初は、エデンの園で、人が善悪の知識の実を食べた後逃げ隠れした時のことだ。あの時も神は懸命に、人を園の中に探して歩かれた。
神が私たちを見失われる時、私たちもまた「自分」を見失う。「私自身」さえ見失った「私」をも、神は捜し求め、見出して喜んで赦し、食卓へと招いてくださる。
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2007年06月17日

6月17日 安心して行きなさい

安心して行きなさい
ルカ福音書 8:40〜56

群衆が迫り、イエスはもみくちゃになっていた。しかしイエスは、12年もの歳月を病で苦しみ通した彼女がその雑踏の中で自分に「触れた」ことを見過ごしにはされない。必死の求めは聴かれ癒しが与えられた。そこには「触れる」ことを通して結ばれた人間の絆がある。だからイエスは彼女の姿を群衆のなかに求めずにはおかない。一言「安心していけ」というために。その癒しは真に、あなたのための、神の賜物だと告げるために。
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