2008年03月30日

3月30日 B♮(ナチュラル)

B♮(ナチュラル)
ヨハネ福音書20章19-31

弟子たち、殊に男の弟子たちは怖かった。自分もイエスのように捕まって殺されることもそうだが、もし女たちがいうようにイエスが甦ったとして自分の前に立ったら、裏切り者の我を何と追及されるか。*だが、イエスは「やあ!」といって弟子の前に現れる。ごくフツウに。とても自然に。なにもなかったかのように。*トマスはその第一の顕現を体験しなかった。彼は頑なになり、拗ね、怒った。何故自分だけが仲間はずれか?!*だが、苛立ち落胆するトマスの傍にイエスはごくフツウの佇んで「触ってみるか?」と問いかける。♯♭も無効にする♮(ナチュラル)記号のように。

※音楽記号のナチュラルはお使いのCPUによっては正しく標記されない場合があります。
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2008年03月23日

3月23日 踊り出る姿で

踊り出る姿で
ヨハネ福音書20:1-18

マリアは泣いていた。遺体が取り去られたからだ。だが、背後から懐かしい声がした。その瞬間、マリアはイエスが生きていることを疑わずに声のする方に振り向きざま、手を伸ばし彼を抱き寄せた。*「縋りつくな」とは連れない詞だ。だが、戸惑い、疑い、悲しみに捕らえられたままの私たちは復活のイエスに縋りついて彼を自分の側へと引き戻すことはできない。*「重い墓石をも蹴破って」死から命の領域へと踊りでられたイエスと共に、私たちも戸惑いやためらい、疑いの領域から、信じて生きる、新しい命の領域へと踊り出るよう招かれている。
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2008年03月16日

3月16日 王はロバの子に乗って

王はロバの子に乗って
ヨハネ福音書12:12-19

「何をしても無駄だ」と権力者たちが思う程イエスの人気は圧倒的だった。世論は圧倒的にガリラヤの巡回説教者の味方に見えた。*ところがイエスは群衆の熱狂の中を醒めた様子で進まれる。輝かしい戦勝の将軍が乗る軍馬でなく、小さなロバの子に乗って。*「圧倒的世論」は5日と経たないうちに見事に逆転する。イエスを英雄として迎えた群衆は、やがてその同じ口で「十字架に付けよ」を連呼することになる。*ロバに乗って群衆の歓呼に応えたこの朝、イエスは5日後のピラトの庭での大合唱を既に聞いていたのだろうか。
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2008年03月09日

3月9日 いのち 結ぶ

いのち 結ぶ
ヨハネ福音書12:20-36

同志社大学今出川キャンパスの中央図書館の前の植え込みの中に「一粒の麦」という小さい石碑が立っている。「一粒の麦」の箇所は、同志社の創立者・新島襄の告別説教に小崎弘道が引用した箇所だ。図書館は新島の東奔西走の募金で竣工成った礼拝堂の正面に位置する。*「一粒の麦」とは、同志社で学んだものにとっては良心の業の、時代を超えて受け継がれ豊かにされる恵みの約束のシンボルだ。*勿論、命は粗末にしてはならない。命と引き換えにではなく、寧ろ命の証として良心=内なる神の声の導きを信じて一心にこの世の勤めに励む幸い、それが「一粒の麦」の福音だ。
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2008年03月02日

3月2日 部屋いっぱいに

部屋いっぱいに
ヨハネ福音書 12:1-8

「家は香油の香りでいっぱいになった」。*誰の目も気にならない。姉が目を瞠っている。男たちの言葉が鋭い。でも、それでも。自分の心を伝えるには今しかないのだから。この人はもう行ってしまう。*どんな高価な香油でも足りはしない。どんなに深く跪いてもまだ足りない。それでも。*最も親密な仕方で、最も脆く危うい心の思いが注ぎだされ、何にも阻まれず受け取られた。何一つ余すことなく。*自分の全てを注ぎだして奉げ、それがこの上ない特別な仕方で受け取られる幸い。注ぎだすことで満たされる不思議。
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2008年02月24日

2月24日 土の器に宝を

土の器に宝を
コリントの信徒への手紙 ニ 4:7〜11

「土の器」。それは、神の手によって土の塵からひねり出され、命の息を吹き込まれて生きるものとなった私たちの存在を言い表すのに最もふさわしいイメージかもしれない。*土から取られやがてまた土へと還る。しかし、器として役目を果たしている間、召しに応えて生かされている間は、この器は神からの賜物を盛り、その輝きを証しする「聖なる器」となる。*神の手のぬくもりを形に宿し、託された「宝」を、最もふさわしく盛り、持ち運び、供する。そんな「土の器」としてあることの幸いを感謝をもって受け取りたい。
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2008年02月17日

2月17日 見いだされて

見いだされて
コリントの信徒への手紙I 12:18-27

「この目さえ見えたら!」この青年の「見える」ことへの渇望をイエスは見逃さない。必死の求めに応える温かい眼差しがここにある。*だがこの青年を取り囲む他の視線は冷たい。人々は青年を「物乞い」として見、弟子たちも彼の葛藤など一顧だにせず、彼の負う痛みを律法解釈で合理化する視線を向ける。律法学者に至っては「見える」青年の存在を完全否定。*だが事実は単純だ。「イエスが私の目を開いた、だから私は見える」。ただそれだけ。*神の愛の眼差しに見出され、それ故に神の救いを、そして新しい自分を見出したこの青年に、今私たちは見つめられている。その眼差しに真摯に応えることができるか。
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2008年02月10日

2月10日 選ぶ

選ぶ
マタイ福音書4:1〜11

私たちは毎日数限りない事柄を選んで生きる。それらの選びの中には確かに大した社会的意味のないものも沢山あるだろう。しかしどんな選びにも、私にとって何が大切か、という価値基準が必ず見え隠れする。*イエスも荒野で選ぶことを迫られる。力、富、そして名誉。それらを「サタン」から手に入れるのか、それともそれら「善いもの」を別の場所に探すのか。*神の不在を象徴する荒れ野の只中で、それでも神の言葉にのみ信頼するイエスの姿に、倦むことなく神に呼びかけ、そのみ旨を求める信仰者の生き様を示される。
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2008年02月03日

2月3日 変身!

変身!
マルコ福音書9:2〜13

高い山の上でイエスの姿が突然変貌する。*神の栄光をそのままに映して、イエスは「愛される子」としての真実の姿を今一度、私たちの前に示される。*「神の子」としての真実の姿は、普段は「ナザレのイエス」という人の姿の奥深くに隠されている。だが山の上で神の愛に包まれ、み子は人の姿のまま神の栄光の輝きを放たれる。*私たちもまた、神の栄光の光を放つ「愛される子」としての姿を奥深いところに秘めている。受難節の歩みを踏み出す前に今一度、この朽ちるべき体がそのままに栄光を映す器であることを憶えたい。
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2008年01月27日

1月27日 癒されて

癒されて
ヨハネによる福音書 5:1〜18

38年!この男はベデスタの池の辺でじっと待っていた。神の奇跡で水が動く時、誰かの憐れみによって自分が真っ先に水に触れるのを。しかし38年間そんな「奇跡的瞬間」は訪れなかった。*「よくなりたいか」とイエスは問いかけられる。良くなりたくない筈などあろうか。「誰も私を助けてくれない」とはこの男性の38年間の絶望の詰まった叫びに相違ない。*イエスとの出会いが、38年間絶望のなかにあった男の人生を覆した。そして覆った男の人生はまた、彼を取り囲む世界をもゆっくりと、しかし確実に変容させるのだ。
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2008年01月20日

1月20日 自由に生きる

自由に生きる
ヨハネ福音書8:21〜36

「アンドリューNDR114」という映画がある。主人公はアンドリューという名のアンドロイド。彼は次第に体験から学び、感じ、そして愛するようになる。*彼の成長の過程で印象的な場面は「自由」を得たいと申し出る瞬間だ。人類の歴史を通して命がけで獲得する価値ありと誰もが認める「自由」を、彼は人間である徴だと考えたのだ。そしてその時、彼は自分を初めて一人称で捕らえる。*私たちが自由に生きるとは、キリスト以外のものを知る必要もない満足を得て、ただキリストの前に「私」であろうとする時かも知れない。
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2008年01月13日

1月13日 来て見なさい

来て見なさい
ヨハネ福音書1:35−51

ヨルダン川で洗礼を受けた後、巡回説教者となったイエスの周りには次第に「弟子」の群れが形作られた。*しかし所謂「十二弟子」というのが誰なのか、福音書によって微妙な齟齬がある。また一体だれが「一の弟子」であるのかについても福音書ごとに意見の相違がある。そして何よりイエスとは一体何者なのか?*「神の子」として生まれたはずの人物が世の只中で「あなたは誰か」と問われる。自らの存在の意味を、他者にも自分にも証明することを迫られ生きる私たちと、「神の子」はこの存在の不確かさをも共に担われる。
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2008年01月06日

1月6日 新しいこと告げる

新しいこと告げる
イザヤ書42:1〜9

私たちの救い主は「傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく」和らぎと癒しをもって私たちの間に住まわれる。*今日、その救いを、星の導きのままに旅をした賢者たちと共に私たちは見る。そのとき、「創めのことは成就する」と預言者は語る。そして世界に向かって「新しいこと」が告げられる、と。*飼葉桶の前から私たちは「別の道」を辿って新しい時間・新しい旅へと導き入れられる。救いは「成就」し、強さではなく弱さ、猛々しい武勇ではなく柔和な癒しをもって治め導く方の「時」が始まる。
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2007年12月30日

12月30日 主に望みを置いて

主に望みを置いて
イザヤ書40:25〜31

「主に望みをおく人は新たな力を得・・・走っても弱ることなく歩いても疲れない。」*ご降誕の喜びの内に歩む最初の主日、私たちは同時に今年の最後の礼拝を守る。それぞれがこの世の「馳せ場」をまた一年歩み終えた。疾風怒濤の如く走り抜けた者、ゆっくり、しかし大事に一足一足歩いた者の違いはあっても。*羊飼いと天使は去った。だが聖家族の旅はまだ終わらない。星を頼りに砂漠を越えて「救世主」を求める人たちの旅もまだ続く。*私たちは今暫く飼葉桶の傍らに留まることを許されている。力を得て新たに歩みだすために。
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2007年12月23日

12月23日 ことばはからだとなって

ことばはからだとなって
ヨハネによる福音書 1章1節〜14節

「ことばは肉体となって私たちの間に宿った」と福音書記者は記す。日本語で「宿る」とされている部分は厳密には「天幕を張って住む」となっている。それは、神が私たちと同じ限界の只中に降り立ち、「天幕住まい」、即ち「浮浪生活」を分かち合われる、というのだ。*神が私たちの生活の最も底辺に降り立ち、地べたで神の栄光を示されるとき、私たちのこの世の価値観は静かに、しかし決定的に覆される。*抽象的だとされる「光」と「ことば」が今や血の通った身体として共にいてくださる。「インマヌエル」である主は私たちのこの身体に宿り、内なる光、真実の言葉となるのだ。
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2007年12月16日

12月16日 決してあやしいものではない

決してあやしいものではない
ヨハネによる福音書 1章19節〜23節

メシアでない、エリヤでもない、預言者でもない。では一体洗礼者ヨハネは何者なのか。「私は荒野で叫ぶ声だ。」しかしそんな答では上司に報告できない。もっとちゃんとした答を貰わねば!*洗礼者ヨハネの風貌は、はっきり言って「怪しい」。駱駝の毛衣を纏いイナゴと野蜜だけを食し荒れ野に寝起きする。どう見ても真っ当な職業選択とは思えない。*だが、ヨハネの怪しさは同時にこの世の全ての縛りからの自由さの象徴ではないか。去り行く地上の王国と来るべきみ国との間の流動的な「怪しい」空間の住人・ヨハネ。だが、それは私たち信仰共同体の姿でもあるのではないか。
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2007年12月09日

12月9日 


ヨハネによる福音書 5章36節〜47節

『あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて聖書を研究している。だが聖書は私について証しをするだけ。なのにあなたたちは命を得るために私のところへ来ようとしない。』*聖書の中に「答え」があると思い、文字の海の中に自分の捜し求めるものの証拠を探す私たち。しかし、聖書は真理そのもの、救いそのものを臨み観る「窓」でしかない、と福音書は語る。*命の御子は、紙の上の文字としてではなく、私たちの傍らの小さい灯火の光の内に人の姿で来られるのだ。
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2007年12月02日

12月2日 希望の光を見上げて

希望の光を見上げて
イザヤ書 52:1〜10

悲しみの塵の中から立ち上がり、輝く衣を纏って奮い立て、と預言者イザヤは捕囚の民に呼びかけた。「あなたの神は王となり、その栄光はあなたの上に光輝く」
と、ヘンデルの「メサイヤ」はこのイザヤの預言を取り込んだアルトのアリアで高らかに歌う。*待降の最初の主日、私たちは、神が私たちを悲しみ、憂い、痛みの過去から解き放ち、慰め、その破れの中に共に住まい、救いの希望となられる、という宣言を聞く。*暗い闇のなかにも希望の光は今年も与えられる。最初の蝋燭のともし火の中にその約束を見出したい。
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2007年11月25日

11月25日 新しい天と地と

新しい天と地と
エレミヤ 23:1-6 & ヨハネの黙示録 1:4-8

この主日、私たちは2007年の礼拝の暦を、エレミヤの王の出現の預言と、黙示録の神の声、「私はアルファでありオメガである」との言葉で締め括る。*教会は二つの「到来」の間を一年かけてゆっくりと螺旋を描きつつ巡礼する。幼子の姿でこの世に来られた主の降誕の時と、その同じ主が、雲に乗って栄光の王の姿で来られる終わりの時の間、すなわち歴史のアルファからオメガの間だ。*今日、私たちは神の時の終点に突き当たる。そしてその「突き当たり」で、私たちは今年もまた、神の救いの最初の到来の希望へと回帰する。
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2007年11月18日

11月18日 幼い命の中に

幼い命の中に
出エジプト記 2章 1〜10節

モーセという名はMashah=「引き出す」というヘブライ語に語源を持つ。水の中から引き出されたこの幼い命は、やがてイスラエルの民を奴隷の地から「引き出」して荒野の旅を導き、「乳と蜜の流れる地」で自由に神を礼拝して生きる日々へと人々を送り出す。*暗い隷属の日々の只中に希望の光として与えられた神からの「しるし」は、脆くか弱い幼い命だった。*今年も、私たち自身の内に巣食い外を覆う「闇」の只中に、幼い命が救いのおとづれの兆しとして与えられる。その脆さの故に幼い命は私たちの堅く冷たい闇を拓くのだ。
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