2007年11月11日

11月11日 何故に旅に出るや

何故に旅に出るや
創世記 12章 1〜9節

私たちはアブラ(ハ)ムを「信仰の父」と呼ぶ。だがそれは彼が立派な信仰者であるからではない。彼は神の声に聴き従わず(そんなフリはする)、妻の願いに振り回され、弱い立場の者を簡単に自分の生活から切る。*彼が「信仰の父」なのは、彼の人生が破れ多く、罪多い歩みであるにも拘わらず(いや、そうだからこそ)そこに神のみ手が働いていることを余りに露に示すからに他ならない。*アブラムは旅に出る。神の声を聴いたからではなく止むに止まれぬ思いからだ。しかしそこにも(だからこそ!)神は伴われる。
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2007年11月04日

11月4日 限られた命を生きる

限られた命を生きる
創世記 3章 1〜24節

善悪の知識の木の実は人間が裸=無防備であることを悟らせた。*自分が無防備であることを知るや人は自己弁護に余念がない。そのエゴむき出しの自己弁護の結果、人は塵に還る存在=死すべき運命にあることを神から宣告される。*しかし、人が塵に還るのは元々塵から創造されたからに他ならない。人は神の創造の時から既に死すべき存在だった。問題は、今や人はその限られた命に向き合って生きることを迫られたということなのだ。*儚く脆い存在でありながら、人の命の輝きこそが神の恵みの不思議を鮮やかに映すのだ。
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2007年10月28日

10月28日 神の姿に創られて

神の姿に創られて
創世記1:1〜5、24〜31

神は私たちをご自身の姿に似せて造られた、と聖書は記す。この言葉を読んで私たちは大抵、「神はそうすることで私たちに何を夢見てくださっているのか?」という信仰的な問いを立てる。*だが・・・ちょっと待て。創造物語が完成する前から、人間は地上を我が物顔に支配し神さえも思い通りの形に刻んできたのだ。ひょっとして、この部分は「自分たちは神の姿を反映した生き物だ」という尊大な自己認識の現れなのか?*「人は神の姿に創られた」ということばの今日的意味を、厳しく吟味することが求められる。
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2007年10月21日

10月21日 イェスの元へ

イェスの元へ
ヘブライ人への手紙 11章32節〜12章2節

「夥しい証人の群れに囲まれて私たちもまた一心に自分自身の競走を忍耐強く走り抜こう」*神に頂いた賜物を生かしこの世で福音の使者となる約束を私たちは立てた。でも走っている間は、本当にこれで間違っていないか不安な時もある。それでも「一心に走り抜こう」と書簡は励ます。*走り始めた時に背中を押してくださったイエスがゴールでも待っていてくださる。そのイエスを見つめながら、私たちはまたこの一週を一心に生きる。そして最後に、私たちは「一心に走る」約束を全うして神に感謝し、満ち足りるのだ。
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2007年10月14日

10月14日 神の国を生きる

神の国を生きる
ルカ福音書17:20〜37

「神の国は何時来る?」神の審判の時に義なる者が復活することを信じるファリサイ派らしい質問ではある。「我らの主張が正しいと証明される時はいつか」という裏の質問もちらつく。*だが「いつか来る」(自分にとって!)完璧な世界を夢見ることは現実軽視の裏返し。今、奪われ踏みにじられる命より「いつか先」の復活が関心事とは、これもファリサイ派らしい、と言うべきか。*イエスはこの感覚矛盾を見逃さない。「神の国は今ここ=あなた方の間に存在する」。「今、ここ」での、命の現実に向き合う信仰者でありたい。
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2007年10月07日

10月7日 だれかが戸口で

だれかが戸口で
ルカ福音書18:1〜8

一人の女性が裁判官の家の戸口に毎日立って、堅く閉ざされた扉を叩いている。夫も亡くなり、支えてくれる息子もいないのだろう。彼女の頼みの綱はもはや公正な裁判のみ。尊大で怠惰なこの裁判官でも役目となれば正しい裁判をしてくれるはず。そう信じて戸を叩く。彼女は決して諦めない。*私たちの神もまた、この女性のように無気力・無関心になりがちな私たちの心の戸口にたって扉を叩かれる。「あなたにはこの声に応えて正義を行う賜物が十分にあるのだから」と。*重い腰を上げ、戸口へと向かう私たちでありたい。
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