2008年09月28日

9月28日 奇跡の原動力

奇跡の原動力
ヨハネによる福音書 11章28〜44節

ユダヤ教の「新年」は今年は9月30日。その祭りをロシュ・ハ・シャナーという。闇から光が生まれた天地創造の時を記念し、角笛の音に導かれて古い過ちを神の前に清算する。*この祭りに重ねて私たちは今朝ラザロの「蘇生」物語を読む。深い闇から再び光に引き戻される命の奇跡、そして彼を深く愛する人たちの、絶望から希望と信仰への帰還の物語。*この奇跡を縁取るのはイエスの涙、そしてイエスの「憤り=激しく心揺さぶられる様」だ。生々しい喪失の痛みに真に心を乱すイエスの深い共感こそが奇跡を可能にする。
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2008年09月21日

9月21日 永遠の今

永遠の今
ヨハネによる福音書11章1〜16節

ラザロは死んだ。そして死者は、希望も栄光もない暗闇に囚われ朽ちてゆく。*しかしイエスはラザロを過去の暗闇に置き去りにはしない。イエスはラザロを暗黒の眠りから起き上がらせる、と宣言される。*「今」という、人間の有限性の只中で、存在すること、未来に向かって生きるための希望は一過性の「時」を突き抜けたところにある「神の永遠」=復活の命のみ〜神学者ティリッヒはそのヴィジョンを「永遠の今」と表現した。*忘却の過去へと飛び去るだけと見える「今」の只中に、時の流れを超える希望を示すためにイエスは自ら危険の中へと踏み出す。
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2008年09月14日

9月14日 知る

知る
ヨハネによる福音書10章31〜42節

「私と父とは一つである」とイエスは断言する。しかしそれはユダヤの宗教的な権威を握る人々には受け入れがたい。宗教的権威を身にまとう人々にとって、神が超越的であって始めて「仲保」を担う自分たちの権威は磐石となるからだ。*だが、イエスは神が人間のこの地上での営みに内在することを疑わない。人間の苦しみ、悲しみ、痛みの最も深いところでその脆さを分かち合う神であればこそ、その独り子を受肉の生涯へと送り出されるのだ。*私たちは自らの脆さの只中で共に呻く神と出会い、その姿に真の自分を知るのだ。
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2008年09月07日

9月7日 呼ばれる

呼ばれる
ヨハネによる福音書10章22〜30節

「私の羊は私の声を聞き分ける」とイエスは言う。イエスを信じる者は自分を呼ぶ主の声を決して聞き逃すことはない。そして主の呼ぶその声に間違いなく応え、従う、そうイエスは語る。*それは、イエスが「父」と呼ぶ神の声を聞き分け、その導きに応え従う、ということと一致する。否、イエスが神に「呼ばれ、聴き従う」者であるが故に、私たちもまたみ子であるイエスと、そして神との親しい応答関係へと招かれている。*名を呼ばれこの世の働きに召される者としてこの食卓で養われ、新たな収穫の季節に送り出されたい。
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2008年08月31日

8月31日 イエスの囲い

イエスの囲い
ヨハネによる福音書10章1-16節

自分の通う教会以外にお邪魔するときにはしばしば“他の”教会に行く、という言い方をするが、イエスという羊飼いの下に集う同じ群れの礼拝に参加するのだから本来“他の”ではないのだろう。*私たちは、自分自身と他人をなにかしらの枠で囲い、時に優越感にひたり、傲慢になることもある。*その姿は私たちが一見「ひどい」と思ってしまうファリサイ派そのものなのかもしれない。*そのそのように弱い私たちは時に足を止め、良い羊飼いイエスの言葉にもう1度耳を傾けることが必要だろう。*「あんな素敵な囲いの中なら入ってみようかなぁ?」そう思われる私たちでありたい。
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2008年08月24日

8月24日 自由になる

自由になる
ヨハネによる福音書 8章31-47節

ヨハネ福音書の信仰共同体は迫害の時代を生きる群だ。ナザレのイエスをキリストと告白し、復活の神秘を信じて生きるその姿勢が国家への反逆として極刑となる。*世を挙げて自分たちを殺そうとしてる。にも拘らずその行き詰まりのところでこの信仰の群は猶(なお)も自由を物語る。*では、人生の抜き差しならない局面で、「にも拘らず」人間を自由にする「真理」とは一体何か。*殺生与奪の究極の権威を握っていると見える皇帝も、一人の人間に過ぎない。そして、その「真理」を知るとき、私たちは世の権力を超えて広がる神の世界へと解放される。*肉体の死が終わりではないことを示されたキリストが、私たちを世の権力の束縛から自由にするのだ。
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2008年08月17日

8月17日 神の光に照らされて

神の光に照らされて
エフェソの信徒への手紙 5章8-20節


「光の子として歩みなさい」。そう、使徒パウロは牢獄の中から、3年も自ら牧会したエフェソの町の仲間たちへ勧告する。*三度の伝道旅行に亘って小アジアやギリシャに彼が育てた信仰の群は古代末期の政治と文化の退廃の中でパウロの想像もしなかった内憂外患に襲われる。エフェソも例外ではない。*権力者の思惑、世の風潮は容赦なく教会の壁の中でも大きな力を振るう。だが、教会には教会の守るべき価値、独自の文化の質がある。それが「光」というモチーフで表現される。*「世の光」であるキリストに従う群れは何時の時代にも「世を照らす光」として召され、生かされる。

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2008年08月10日

8月10日 赦され、生かされ

赦され、生かされ
ヨハネによる福音書8章3-11節

「ゴメンで済んだら警察はいらん!」とはヤクザな物言いながらある真実を含んでいる。円滑な社会生活のために規則は作られ、皆がその規則を守って生きることで「快適な市民生活」が可能になる。規則違反には相応の罰則を。当然だと言えばその通りだ。*だが、どんな規則も人間が作ったことを忘れてはならない。そしてどんな規則も、より善き「生」を可能にするためにこそ行使されねばならないことも。*気に入らない人物を罠に嵌(は)めて葬り去るため、一人の女性の尊厳を踏み躙(にじ)り、命を奪うことをなんとも思わない男たちが登場する。彼らの大儀は「規則遵守」。*「正しいこと」だけが人の営みの価値なのか?測り、裁き、切り捨てる、それが「神の民」の掟の本質か?地面にうずくまるイエスの姿は、「正しさ」という偶像への抵抗か。
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2008年08月03日

8月 3日 善いものは何処から?

善いものは何処から?
ヨハネによる福音書7章40-52節

「メシアはガリラヤから出るだろうか。」この問いは単純な疑問文ではない。都エルサレムからすればガリラヤも異邦人の蹂躙(じゅうりん)に穢(けが)れた土地。そんな場所から「善いもの」など出るはずはない。強烈な差別発言なのだ。*出身地を根拠にした差別と偏見があからさまに述べ立てられる。イエスもまた、その意味において被差別の人であった。「地の民」と蔑(さげす)まれ、「大工」=職人として軽んじられた。*「人の世に熱あれ、人間に光りあれ。」と全ての人の自由と平等を宣言したのはしかし、被差別の苦しみを知る一人の青年だった。*人間の最も深い痛みと悲しみを知る者の生き様が、怒りも恨みをも止揚(しよう)し、和解を告げる福音を証しするのだ。
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2008年07月27日

7月27日 み目に適う徴

み目に適う徴
士師記6章36-40節

ギデオンは自信がなかった。だがその不安はイスラエルの民全体の不安の投影だ。「この人物は本当に『神に選ばれた者』なのか」と。*ギデオンが求めた徴は実に馬鹿馬鹿しいもの。羊毛に夜露を置けだの、その下の地面は濡らすなだの、『万軍の主』の力を試すには余りにスケールが小さい。*だが、ギデオンにはそれで十分だった。いや、イスラエルの民にはその馬鹿馬鹿しい徴が必要だった。ギデオンの声を聴く神が自分たちの神である、と信じるために。*自らが神の目に適う者かどうか、それは実は誰にもわからない。それは私たちが信じて一歩踏み出し、自らの務めを果たそうとするときに証される。*「徴」は召しに応えたときに初めて意味あるものとなる。
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2008年07月20日

7月20日 命のパン、天から降る

命のパン、天から降る
ヨハネによる福音書6章41-59節

「私の肉を喰らい、私の血を飲むものは永遠の命を得る」*この世では多くの神々が崇(あが)められているが、それらの神々を崇める儀式的食事では大抵の場合、神が人間の労働の賜物(たまもの)、また命までもを喰らい吸い取る。福音書記者ヨハネの時代に流行った宗教の多くもまたそうであった。*だが教会はその神と共なる食事の場を全く逆の思考で模索した。神が自らの体を裂き、自らの命の徴(しるし)である血を注ぎだして礼拝者に命を与えるのだ。*「これは天から下ってきた命のパン」とは私たちの教会の主の食卓への招きのことばだ。私たちのために人となられたみ子の「今、ここ」に示される臨在を喰らい飲む生々しさの中にこそ、私たちの生きることの本質を見出したい。
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2008年07月13日

7月13日 いのちの糧

いのちの糧
ヨハネによる福音書6章22-27節

生活の瑣末(さまつ)事を一括りに「日常茶飯事」という。だが、「飲み食らうこと」は私たちの生命維持の最重要課題だ。食べたものが消化吸収され消費され、また細胞レベルで新陳代謝する。*生物学的には飲み食いしたものが「朽ちる」からこそ私たちの命は維持され更新される。だが、飲み食いによって満たされるのは胃袋だけではない。私たちの心も魂も、潤いと養いを求めて止まない。*私たちの肉体は新陳代謝率が低下し、やがて朽ちる。だが魂は、精神は、肉体の限界を超えて永遠を思い、復活の命を臨み見るだろう。*主イエスは、私たちが神の永遠の時を思い、生きるための養いを備えていてくださる。
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2008年07月06日

7月6日 恐れることはない

恐れることはない
ヨハネによる福音書6章16-21節

夕闇迫るガリラヤ湖に弟子たちは舟を出す。湖での漁経験の長い者が4人もいるだけはある。強い風も闇の湖も恐怖の対象ではなかった。*ところが彼らを縮み上がらせたものがある。イエスだ。水の上を歩いて舟へと近づいてこられるイエスの姿は、風よりも、荒れる湖水よりも彼らを怖がらせた。*波高い航路を行く帆掛け舟は教会に譬えられる。私たちもまた、荒れ狂うこの世の嵐より、その嵐を衝(つ)いて私たちの「舟」に近づいてこられるイエスに、時に畏(おそ)れをなすことがあるのではないか。*「恐れるな、私だ」。*私たちの平安は、この世の嵐を衝いてこの「舟」に近づいてくる。
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2008年06月29日

6月29日 命の在り処

命の在り処
ヨハネによる福音書5章19-40節

「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」*私たちの日常のコミュニケーションは誤解に満ちている。にも拘(かかわ)らず、私たちは相変わらず「今私が言ったとおりに理解して欲しい」と他者に要求し、またそうできるのだと信じている。*だが言葉の意味は「語り手」の占有物ではない。寧(むし)ろ「聞き手」によって「ことば」は初めて意味を与えられ、命を吹き込まれる。*言葉=文字は書かれてあるだけなら静物に過ぎない。しかし、一つの人格の肉声で語られ、更にそれが聞き手によって聴かれることで動的世界=自在な意味の世界、即ち「命」の世界を創造する。*み子は、語ることによって、それを聴く私たちに命をお与えになる。自在に、永遠に。
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2008年06月22日

6月22日 信じる 生きる

信じる 生きる
ヨハネによる福音書4章43-54節

カペルナウムからカナまで約80キロの道程。それはイエスと王の役人との間にある様々な「隔たり」をも象徴する。だが、息子の命のためなら何も惜しくはない。見栄、社会的地位、政治的安定。*その必死さは確かに「信じる力」の証しではある。だが王の役人が往路に抱いていた「信仰」と、復路に得たそれとは劇的に質が異なる。*王の役人はイエスに癒された証人を見て癒しの奇跡=事象を信じていたかもしれない。だが、「あなたの息子は生きる」との言葉を携えての帰路に息子の快復を知った王の役人は、信仰故に約束された救いを見る幸いを知る者となる。*「見ないと信じない」者から「信じる故に見る」者へと、イエスとの出会いは私たちを贖い取る。
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2008年06月15日

6月15日 いのちの泉

いのちの泉
ヨハネによる福音4章5-26節

真昼のシカルの井戸端で、女はイエスに声をかけられた。女はそれをそっけなくいなす。*「俺が誰だか知ってのことかい?」「私は毎日誰の助けもなくここから自分で汲んで飲んでるのさ」*だが、女は次第にイエスがこの井戸の水の話をしているのではなく別の「水」の話をしていることを理解する。理解し、そして信じた。*「生きた水」、それは飲んでもまた渇く井戸の水の、刹那の癒しではない。魂の、そして肉体の深い渇きを癒し、更に他人の渇きをも潤して尚涸れない喜びと充足、イエスとの出会いに生きる命の泉だ。
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2008年06月08日

6月8日 造られたものはみな

造られたものはみな
創世記2章7-9,15-19節

世の初め、神は、そのみ手で思いのままに泥を捏(こ)ね、様々な形に整え、鼻にご自身の息を吹き入れてこの地を命の賜物(たまもの)で満たされた。その創造の姿はまるで、一心に粘土を捏ね、自らの想像の世界に浸って遊ぶ幼いこどものようでもある。*この主日、私たちも神の創造の営みを追体験したい。それぞれの中に確かにあるやわらかい魂を呼び覚まし、頭の中の自由な想像の世界を、興味深い形として表現する喜びを思い出そう。*「こどもこそ神の国にふさわしい」とイエスは諭された。こどもは自由な想像=創造の力の塊だ。神の国の扉は、自由な創造の喜びに与ろうとする者に開かれている。
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2008年05月25日

5月25日 風は思いのままに

風は思いのままに
ヨハネによる福音書3章1-15節

ニコデモは夜中にこっそりイエスに会いに来た。誰かに見られでもしたら困るからか。町を代表する議員のひとり、ファリサイ派の教師でもある自分が、ガリラヤ出身の巡回説教者に心を寄せているなどと知れたらどうなるか。* 闇の中、ニコデモはイエスを「ラビ=先生」と呼んだ。いつもは自分がそう呼ばれる。だがこの夜の闇の中ではイエスがただ一人のラビだ、そうニコデモは確信している。*夜の闇のなかでしか口にすることのできない思いがある。夜の闇のなかでしか耳にすることのできない真実がある。夜の闇の中であるからこそ闢(ひら)ける世界がある。そしてそこでは風は、神の息吹は、「思いのままに吹く。」
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2008年05月18日

5月18日 どんなときも 共に

どんなときも 共に
ヨハネによる福音書 14章8-17節

フィリポはイエスに「神を見せてくれ!」と駄々っ子のような無理難題をふっかける。だがイエスは「もう見ているよ」と応じる。フィリポはきっと目をぱちくりさせたに違いない。*御子が「父」である神の内にあり、同時に神がその御子の内におられる、その親密さと同じ温もりに今既に私たちも包まれている。御子と深くご自身の存在を分かち合う神から「真理の霊」が私たちを覆い守るために遣わされ、私たちの内に共に、今も、これからも留まるのだから。*人の知識の地平を軽々と超える神が、私たちのこの肉体と精神と、そして魂の内に臨まれる。いつも、どんなときも。
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2008年05月11日

5月11日 神の息吹

神の息吹
使徒言行録2章1-11節

エゼキエルが預言すると一陣の風が吹き過ぎ、夥(おびただ)しい数の枯れた骨に肉体の甦りをもたらした。*「殺された者たち」は神の息吹=霊の荒々しい力によって死という永遠の沈黙から解き放たれ、再び語りだす。自分たちを虐げ、命を奪った者たちの不正義を告発し、神の正義を証するために。*弟子たちもまた権力の前に恐れ慄(おのの)き、主の復活を公には証言せず息を殺していた。しかし主の霊は、生ける屍同然の弟子たちをも捉え揺さぶり証させる。*聖霊は奪われた命を回復し正義のための証の声を、言葉を与える力そのもの、そして教会とは、この解放の風が生み出す証人の群れなのだ。
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