2009年03月29日

3月29日 仕える

仕える
マタイによる福音書20章20-28節

「あなたの王座の左右に息子たちを座らせて」と、ゼベダイの妻はひれ伏し願う。ガリラヤの網元夫人は夫を置き去りにして息子たちに付き添っていたのか。*息子たちは積極的な母の後ろに従っている。安定した家業を継ぐことを打ち遣って弟子入りしたからにはその見返りを求めたいのだが、自分たちだけでは言い出せなかったか。*イエスの口調は穏やかだが、その言葉によって当時のユダヤの文化、その精神性=勝利主義(現世の栄達=祝福)が批判される。*イエスの仲間となることは、この世の栄達とは何の関わりもない。それどころか、世の「勝ち組」に搾取され抑圧される人たちの一人となることを喜んで、自由な意思で選び取る歩みなのだ。*私たちが、栄達のためでなく「負ける」ために自らの賜物を世に差し出す時、イエスの十字架の愛だけが私たちの尊厳だ。
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2009年03月22日

3月22日 輝く

輝く
マタイによる福音書 17章1〜13節

「Laetare=喜べ!」とのイザヤの預言の歌に導かれ、受難節の半ばに私たちは暫(しば)し、克己と節制の緊張から解放される。*この日、私たちは神の子の栄光の輝きを再び仰ぐ。降誕の日に暗い空を照らした天の軍勢の輝きと、荒野での洗礼の日に響き渡った天からの声「これは私の愛する子」とが再び邂逅(かいこう=めぐりあうの意)する。神の臨在の雲に包まれ、伝説の預言者たちと中空で語りあうイエスは神の子の本質を隠すこともない。*この光に照らされて私たちは十字架の下へと旅を続ける。この光を目の当たりにしたからこそ、私たちは復活の朝の輝きを信じることができる。*私たちと全く同じ姿で、喜びも悲しみも、幸いも苦しみをも共に担われるかたが今、山の上で栄光に輝く。それは十字架の道を共に辿(たど)る私たちに約束された希望の光だ。
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2009年03月15日

3月15日 解く・繋ぐ・捨てる

解く・繋ぐ・捨てる
マタイによる福音書16章13-28節

ペトロは期待を込めてイエスがメシア=「油注がれたもの」であると告白する。その告白を受けたイエスは、ペトロを「幸いだ」としながら、しかしペトロの抱く「メシア」像を覆(くつがえ)すような言動に出る。「自分はエルサレムで殺され、三日目に復活する」と。*メシア告白によって「天国の鍵」を預けるとさえ言われ、お前が地上で解いたり繋いだりすることはそのまま天の出来事となる、とまで「褒め上げられた」ペトロはここで大きく躓(つまず)く。*ペトロはイエスの「誤り」を正そうとした。預かったはずの「天国の鍵」で、地上のほころびを天上で繋ごうとしたのか。しかし、その「天国の鍵」こそは、イエスが十字架の死を通して私たちのために贖(あがな)おうとされる物ではないか。*「天国の鍵」は愛ゆえに捨てるイエスの命によって、イエスの後に従い歩む、礼拝する群に与えられる、神と世への奉仕のしるしだ。
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2009年03月08日

3月8日 解き放つ

解き放つ
マタイによる福音書12章22-32節

「ベルゼブル論争」といわれる箇所。宗教的権威によって病や身体・心の障がいが「神に対する罪の証拠」として社会的スティグマとなる文脈では、「障がい」を取り除くという行為も単に医療的な行為ではなく社会的・政治的な意味合い=権威の所在を問う問題となる。*「悪霊祓い」=「罪の赦し」が祭司階級によって独占されていることがユダヤ社会の宗教的権威構造を支えている。ところがイエスはこの「構造」に真っ向から挑戦する。*「油注がれた者」が神の霊によって「悪霊」を追い出すとき、その時こそ荒れ野が喜び踊って花を咲かせるとき、砂漠に水が湧き出で、川となる時だ。*干からび渇ききった既存の「権力構造」=「悪霊」から、イエスは私たちを解き放つ。
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2009年03月01日

3月1日 荒野へ

荒野へ
マタイによる福音書4章1-11節

空腹、神の不在への不安、そして権力への阿(おもね)り。これらの3つが、イエスが荒れ野で体験する「試み」だ。肉体と精神の限界で、生きる姿勢の根本が問い直される。*「40日」とはノアの箱舟が嵐の中をさ迷い、ヨナが魚の腹の中で暗黒の死を体験する時間の追体験、またイスラエルの民が砂漠を旅する40年の歩みの仮体験でもある。私たち人間の存在を拒絶し否定する「荒れ野」で、その徹的な「否」の前で、私たちは初めて自らに向き合い、その存在の意味を問うことを得る。「荒れ野」は将に神の領域だ。*受難節の最初の主日に、私たちは再び、神の存在とそのみ心の前に膝を折り、行くべき道へと立ち返りを迫られる。驚くべき愛の奇跡を目撃し、体験するために。*
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2009年02月22日

2月22日 逆風を突いて

逆風を突いて
マタイによる福音書14章22〜36節

弟子たちは波立ち始めた湖へと「強いて」送り出される。そして逆風のため、なかなか目指す岸へと辿り着けない苛立の闇に放置される。*逆風に揺れる船の上で懸命に舵を取り、目を凝らし業を駆使して「向こう岸」を目指すような経験を私たちも時に味わう。そして「神の子」イエスの決定的な介入を願いながら、実際にその「救い」を前にしてはうろたえ、不安と恐怖に慄く。*逆風と闇を衝いて、イエスは私たちの苛立ちと疲労の只中に介入し、波立つ湖の上へと歩みを進めるよう促す。*この世の激しく暗い荒波に溺れそうな私たちの手を、「神の子」イエスは決して放さない。あの夜、ペトロの手を捕まえられたように。「疑うな」との呼びかけに大胆に応える者でありたい。
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2009年02月15日

2月15日 《差別者》イエス

《差別者》イエス
マタイによる福音書14章22〜36節

「イスラエルの失われた羊」でない者が、「イスラエルの羊飼い」=王の前に膝を屈め、癒しを求めて憐れみを乞う。「羊飼い」はこの「よそ者」をもその翼を広げて覆い包まざるを得ない。それは「おこぼれ」の恵みだ。だがその「おこぼれ」にさえ(こそ?)どれほどの恵みがあることか。*「おこぼれ」が、イスラエルの庇護の元に身を寄せる人たちの生きる支えとなる、という図は、「落ち穂拾い」を思わせる。刈り入れの恵みは取り尽くしてはならない。貧しい人が後から来てそれを集め生きることができるように、と律法に書かれている。*神の憐れみ=ヘセドの真骨頂は、その「おこぼれ」を拾わざるをえない人たちの内にもたらされる癒しと安らぎだ。*お前の取り分はここにはない、と一度は拒否された者が、それでは「おこぼれ」を這いつくばって拾うこも辞さない、と覚悟を決める時、「おこぼれ」こそが正真な恵みの徴となる。そして「よそ者」を拒絶した「王」は、自分が切り捨てたものの中にこそあった「神の恵み」に畏怖し回心することだろう。
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2009年02月08日

2月8日 闇から光へ

闇から光へ
使徒言行録9章1〜9節

「ダマスコ途上の回心」の物語は使徒言行録のなかで使徒パウロが繰り返し語る、重要なエピソードだ。パウロが自ら使徒である、と主張できるのは、なによりこの衝撃的体験=復活のキリストとの出会いあってのことなのだから。*迫害の息も荒く、「敵」に対する暴力的衝動に駆られて馬を馳せる若きサウロ(パウロ)。その猪突猛進が突如として断ち切られ、復活のキリストとの出会いが彼の人生を全く造りかえる。*内的価値の大逆転を経験した一人の若者が、その激変させられた「視点」でもって眺めた世界の新しさ、その全く異なる輝きを、私たちも体験したいものだ。
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2009年02月01日

2月1日 神の住まいに相応しく

神の住まいに相応しく
マタイによる福音書 21章12〜17節

「祈りの家であるべき神殿を泥棒の巣にした」。そう言い放つや神殿で商売をしている者たちの台を荒々しく覆して歩くイエス。こうして、神の名を隠れ蓑にした弱者搾取の構造が名指しされ、その貪欲と無関心の闇に巣食う私たちの「罪」が明らかになる。*光の下に晒される自らの罪を目の当たりにして私たちは神の前に謙虚に赦しを請う機会を与えられる。心砕かれ、神への畏れを再び心に抱いて立ち返るよう招かれる。*福音書に併せて読まれる使徒書の日課は使徒言行録7:44〜のパウロの言葉だ。神は壮麗な「建物」ではなく、砕かれた人の心を住まいに望まれる。*神の住まいに相応しく、神のみを畏れ、愛する心をもちたい。
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2009年01月25日

1月25日 宣教の夢を語る

宣教の夢を語る
ローマの信徒への手紙 1章8-17節

使徒パウロはカイサリアの牢獄に在る。その暗い独房の中でパウロはローマを目指す夢を抱く。そして、目も眩むような光に打たれて復活のキリストに出会った衝撃的な体験をローマの信徒たちと分かち合うというその夢をパウロはやがて命と引き換えに果たすのだ。*預言者イザヤは、捕囚の闇の中を歩く民の上に光が輝き、深い喜びが与えられる幻を語った(8:23)。その預言は福音書記者マタイによって、「地の民」の暮らすガリラヤの地からイエスの福音宣教の業の第一声が上がったことで成就したと語られる(4:12〜)。*ローマ帝国の「罪」が凝縮する首都で信仰の灯を守る信仰の群に福音の「光」が深い喜びを与えるというパウロの証言と、預言者と福音書記者の言葉が共鳴する。
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2009年01月18日

1月18日 網を捨てて

網を捨てて
マタイによる福音書 4章18〜25節

詩篇の詩人は「計り知れない神の御計らいを語り伝えます」と賛美の動機を歌う(40篇)。その歌に導かれ4人の漁師が福音を「語り伝える」務めへと召される物語を聴く。*漁師たちは招きに応えて、自分の社会的身分を保障し、自分に依存してしか生きることのできない人たちの生活を支えてきた「網」を捨て、無頼の放浪者の一人となった。*召しに応えることは、み言葉の宣教を担う光栄だけでなく、今まで担っていた責任を放棄するという影にも彩られる。預言者エゼキエルが口に「甘い」と言う神の言葉は(エゼ2)、使徒ヨハネによって「腹には苦い」(黙示10)と告白されるように、み言葉に聴くだけでなくその導きに生きることは、葛藤=内的試練を自ら引き受ける覚悟を喚起する。
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2009年01月11日

1月11日 人の子イエス

人の子イエス
マタイによる福音書 3章13〜17節

詩篇の詩人は、神に選ばれた王がシオンの山に即位したことを告げ、神ご自身がその「王」=「私」(詩人!)を「今日、生んだ」と宣言されるのを聞く(2篇)。詩人はダビデ王その人なのか。*その歌に導かれ、私たちは、ヨルダン川で洗礼を受けるイエスの物語を聴く。天が啓き、イエスは自分に聖霊が降り注ぐのを「見る」。そして私たち傍観者は、天からの声を聞く。「これは私の愛する子、私の心に適うもの」。*ダビデが人の目ではなく神の目に適うものとして油注がれ「王」としての即位を約束される物語が旧約の日課として併せられている(サム上16)。ダビデへの塗油が、イエスの「神の子」としての顕現=水と霊の洗礼の予型として読まれ、それ故ヨルダン川から上がって荒れ野へ、そして町へと向かうイエスの宣教の業が、「油注がれた者=メシア」の職務=解放と癒しの預言の実現として描かれる。
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2009年01月04日

1月4日 旅立ち

旅立ち
マタイによる福音書2章13-23節

クリスマスの喜びの内に、私たちは十二夜を過すことを許されている。だが、マタイの物語る降誕の場面は大きな悲しみと痛みによって断ち切られるように終焉を迎える。*星占いの学者たちは喜びに満たされ、そして来た道とは「別の道」を通って故郷へと帰還する。彼らの人生は幼子との出会いによって大きく変質するだろう。*だが、最も激しい人生の転機は誰よりも、この幼子イエスを抱えた家族に訪れる。*ユダヤの権力者に命を狙われ、自分の息子の命と引き換えに惨殺されたこどもたちの命とその親たちの慟哭という悔恨の重荷を背負って、夜の闇を衝いてこの小さな家族は旅立った。*喜びに満ち溢れて、故郷へ向け新しい道をゆく博士たち。その一方で、全てを奪われ難民となって逃避行の旅にでる「インマヌエル」の名を負う幼子の家族。*私たちの旅立ちはこの二つの道程のどちらに寄り添うのか。
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2008年12月28日

12月28日 和解の光のもとに

和解の光のもとに
マタイによる福音書 2章1〜12節

「ユダヤ人の王」。東からやってきた占星術の学者たちはイエスをそう呼んだ。それはまた、イエスの十字架に打ち付けられる「罪状」でもある。*「自分の民のところに来たのに受け容れられない」王=イエスが異邦・異教の人=占星術の学者たちの拝礼を受ける。そしてこれらの、地の果てから人生をかけて「イスラエルの救いの徴」を求めてやってきた異邦の旅人たちが馬小屋の幼子に拝礼するとき、「ユダヤ人の王」は「全ての人の」救い主として、その恵みを世に現す。*異邦人=救いの外に置かれている、と思われていた人たちの真摯な真理探究の姿勢が救いの到来を証する。占星術の学者の証言は、私たちに真の謙遜と、「異なる」として疎外している人たちとの和解を促している。
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2008年12月21日

12月21日 闇の中にも、共に

闇の中にも、共に
マタイによる福音書 1章18-23節

待降節4週目に灯す光は「愛」そして、「成就」。独り子を十字架につけるため世に送られる「父」なる神の愛、その愛によって成就する救いの約束に思いを馳せるこの日、私たちはメシアの「地上の父」としての責任を引き受けたヨセフの夢の闇の中へと誘われる。*「恐れることはない」。結婚を目の前にしたヨセフの幸福を突然に破壊した事実をそのままに受け容れよ、と天使は夢の闇の中で告げる。それは、ヨセフにとって自分のプライドよりも、マリアと彼女に宿る新しい命を優先することを選択をさせた。*ヨセフは人生の絶望の闇のなかで、神の時が満ちる時をそのまま迎え入れる。闇の中にも「共に宿る」神の徴を信じて。
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2008年12月14日

12月14日 来るべき者

来るべき者
マタイによる福音書 11章2-19節

待降節3週目に灯す光は「喜び」。地上に人となって宿られる幼子誕生の喜び、そして「嘗(かつ)て成就した」救いを通して「やがて来るべき」終末の神の国を確信する喜び。その賛美の心をばら色の蝋燭に込める。*洗礼者ヨハネはイエスに「あなたこそ来るべき方か?」と問う。イエスの洗礼に立会い、「これは私の愛する子」との声を聴いたはずのヨハネさえもイエス本人の言葉を求めて心迷う。*しかしイエスの答えは間接的だ。目の前で起こっているあらゆる回復の奇跡が、古の預言の言葉の成就と信じるか否か、答えは私たち自身への問いとなる。*今、この時に示される救いの徴を喜びをもって証する群となりたい。
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2008年12月07日

12月7日 知ってるつもり

知ってるつもり
マタイによる福音書 13章53-58節

見ているのに分かっていない。知っていると思っていることだけが「世界」だ、と思っている。しかし「隠されている」こともある。* 私たちは自分たち自身の罪深い現実(イザヤ59:12-)も、目の前の目覚しい出来事の本質(マタイ)も、実は分かっていない・・・いや分かろうとしていない。だが、詩篇の歌い手は、私たちにその「つもり」の手垢にまみれた「めがね」をはずして、真新しい視界におどろきつつ、「新しい歌を歌え」と促す(詩篇96編)。*古いことの真っ只中で、「世々にわたって隠されていた、秘められた計画」(ローマ16:25-27)が、今将に実現している事実の前にひれ伏し、その喜びを証し、この目覚しい「刷新」の告知の衝撃に対して備えるようにと警告され、押し出される。
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2008年11月30日

11月30日 誰も知らない

誰も知らない
マタイによる福音書 24章36-44節

密(ひそ)やかに、誰も知らない内に「人の子」は来る。 だから「目を覚ましていなさい」。*待降節最初の主日、私たちは「裁きの時」への備えについて問われる。「人の子」がいつ、どんな方法でやってきても相応(ふさわし)く迎えることができるか、と。*それにしても「人の子」が「真夜中の泥棒」に譬えられるとは!その訪れが私たちにとって危機的な出来事であるとの示唆か。*「人の子」が、暗闇を突いて忍び寄り、私たちが隠しまた蓄えている様々なものをすっかり暴き吟味して持ち去る泥棒のようであるなら、私たちは自らの「宝」の在り処を今一度確かめ、その「宝」を宝とする価値観自体の吟味をも迫るだろう。*全てが暴かれる、その時を喜んで迎える者でありたい。
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2008年11月23日

11月23日 最もちいさい者の一人に

最もちいさい者の一人に
マタイによる福音書 25章31-46節

2007-08年の礼拝の暦の「大晦日」、最後の審判に関わるイエスの譬えに聴く。*時に臨んで王=キリストは
「全ての民」を呼び集め、「羊飼が羊と山羊とを分けるように」選別する。その基準は、「最も小さい者」への慈愛の有無だ。*この「王」は自らを他者の情けに縋(すが)るしかない無辜(むこ=罪がないこと)の民と同一視する。そして、誰でも、人としての情けから、この無辜の民の一人に、一口の食べ物、一杯の水、一夜の宿、一枚の衣服、傷の手当て、そして訪問の労を惜しまない者に永遠の命を約束する。*私たちは、一人では全世界を救うことは出来ないが、目の前の一人の必要に応えることは可能だ。「私」が、この一人の必要に応えること、それが「永遠の命」の入り口だ。
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2008年11月16日

11月16日 み言葉を預かるもの

み言葉を預かるもの
申命記 18章15〜22節

イスラエルの人々は今や砂漠の放浪を終え、ヨルダン川を渡って「約束の地」へと入ろうとしている。新しい旅のステージを前に、神との契約が再び想起される。*契約の想起は民に、真の導き手は神ご自身であり、偉大な指導者も神の言葉を預かる器に過ぎず、民の信頼は「人物」に託される神の言葉ゆえでなければならないことを確認させる。*神は民に預言者を送ってくださる。彼(彼女)は、神から預かり、民に語る言葉の実現=受肉に自らの真実をかける。イエスもまた、その意味で真の預言者である。*真の預言者の導きに従う群れとなりたい。
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