2008年11月09日

11月9日 祝福の条件

祝福の条件
創世記13章1-18節

人は何をもって「祝福を受けている」との確信を得るのか。またそもそも「祝福」の正体とは一体何なのか。*アブラハムは多くの財産を得た。あまりに多すぎてそれが親族間の争いの因になる程に。だからアブラハムは甥のロトと袂を分かつ。*いよいよ自分の群れだけになって旅を続けるアブラハムに、神は「祝福」を約束する。それはロトを蚊帳の外に置く排他的なやり方とも取れるが、一方より一層、神との親密な関係への招きとも取れる。*ただ独り人生の旅路を行くとき、私たちは伴われる神の語りかけに傾聴することを迫られる。自分の野望と神のみ心との間で試される。その懊吟(おうぎん)こそが祝福か。
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2008年11月02日

11月2日 信仰の法則

信仰の法則
ローマの信徒への手紙3章21-28節

人間は何によって救いを得るのだろうか。そもそも、人間の「救い」とは何なのか。*1517年10月31日、95項目に亘(わた)る「人間の救い」についての論考がヴィュッテンベルク城の門に貼り付けられた。その論考は「人間の救いはその行いによって贖(あがな)われるのではなく、ただ神を信じる信仰によって与えられるのではないのか」との信念に貫かれていた。*私たちの命が、死後の魂の救いというだけでなく、この世の生の只中にあって、既に「贖い取られた」ものである事を信じること、そのことを措(お)いて他に神を畏(おそ)れ、それ故に大胆に自らの良心を世の勤めに生かすことは出来ない。*神の前に独り立つ厳しさと共に自由を、「信仰義認」の信念は私たちに明らかにしてくれた。
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2008年10月26日

10月26日 新しい天と地と

新しい天と地と
ヨハネの黙示録21章1-4、22-27節

使徒ヨハネは絶海の孤島・パトモス島で、囚人としてその最晩年を送った。裕福な網元の息子あった若者は、十字架と復活の最初の証人の一人となり、教会の成長とその闘いを見守った。多くの仲間が信仰を守って命を捧げるのも見た。*病と孤独、そして激しい迫害という何重もの苦痛の中で使徒ヨハネは尚、神の約束の成就の幻を見、それを証する。*この世はやがて神ご自身のご計画の中で、全く新しい姿へと変貌を遂げる。その希望によってのみ、私たちは今、ここでこの世の「古いもの」を変革するための労苦に参与する。
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2008年10月19日

10月19日 視点を変えて

視点を変えて
マタイによる福音書20章1-16節

イエスの時代のユダヤでも、ローマ帝国の資本主義市場経済の影響の下、若くて体力があり、賃金の元が取れる労働力が重宝され、そうではない「商品」はいくら作業に熟練していても見向きもされなかったようだ。*イエスの譬えは、市場原理のなかで商品化される貧しい人々に注目しつつ、神の国の「経済理論」を説く。僅かしか働かなかった者も、一日中働いた者と同じだけ賃金は支払われる、と。*神の国の経済は、寛大な資本家である神が、救いという「資本」を何の対価をも求めずに自由に、そして大量に流通させることによって、全ての人を「貸借表的評価」から解き放つ、恩寵のデフレなのだ。
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2008年10月12日

10月12日 仕える

仕える
ヨハネによる福音書13章12-20節

信仰生活の3つの軸、それは礼拝生活の充実、祈りへの退修、そして奉仕の実践だ。*教会は何よりもまず礼拝する仲間であり、飲み食いも、共なる楽しみも悲しみも、詰まるところ神を礼拝する行為と繋がらないでは成立しない。*共同体としての充実は個人の確立なくして有り得ない。独り祈る時間は神の前に一人立つ信仰者の矜持でもある。*信仰共同体に自立した個人として参与する信仰者はそして、世に仕えることを通して神の召しに応える。何故ならイエスがまず、神に遣わされた者として私たちの足元に跪いてこの足を洗って仕えて下さったからだ。*同じく主に足を洗って頂かなければ生きられない者として私たちは招かれ、主の奉仕によってのみ互いに仕え、世に仕えるものであることを許される。
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2008年10月05日

10月5日 全ての民を招くために

全ての民を招くために
ヨハネによる福音書17章21-26節

「子」が「父」と「ひとつ」であるように、私たちが「ひとつになるように」とイエスは祈る。*「ひとつ」とは没個性となって「一様になる」ということではない。何故なら「子」であるキリストが「父」である神と「一つ」なのは、互いの存在が、その「位格=個性」を深く分かち合い、互いの内にいる故なのだから。*私たちの主イエスはこの世界の隅々から私たち全てをその食卓に招かれる。それぞれがその個性、その賜物を持ち寄り、惜しみなく分かち合い受け入れることにおいて「一つ」となるために。*私たちの多様性が万華鏡のように「ひとつ」の美しい変化の連続となる、その恵みの場こそが「主の食卓」なのだ。
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