2009年09月27日

9月27日 天の国に入るには

天の国に入るには
マタイによる福音書 19章13節-30節

天の国に入り永遠の命を得るのはどんな人か。*マタイは、(恐らく)煩くて泥だらけで、弟子たちに退けられたこどもたちと、イエスの前に当然のように進み出て自分はその資格があるかと問う青年を対比する。そして、こどもたちは無条件に受容される一方、「金持ち」が天の国に入るよりは駱駝(らくだ)が針の穴を通るほうが易いと言い、主の名の故に家族も捨てる覚悟のあるものが「永遠の命」を受ける、という。*日課はそして、「後のものが先になる」というイエスの言葉で締めくくられる。金持ちの、小さい時から正しく生きてきたと自負する青年ではなくこどもたちが、そしてイエスに従うことを生き方に於いて最優先させるものが、どんな既得権を主張するものより「先になる」。*イエスとの出会いの一瞬一瞬に於いて、《今》従うこと・立ち返ることを選ぶ者が、過去と現在の汎る否定要素に拘らず、招かれる。
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2009年09月20日

9月20日 心から赦す

心から赦す
マタイによる福音書18章21-35節

ユダヤ暦では「年の頭=Rosh Ha’Shanah」を記念し、過ぎ越し一年を顧み神に赦しを乞うこの日、私たちもまた、神の赦しによってのみ命を刷新される信仰共同体の「関係性」について思いを深める。*「七の七十倍赦せ」とは、「七」=完全数の二乗の十倍、即ち「無限」の赦しを示唆している。*とは言え心から、また無限に「赦す」のは難しい。殊に理不尽な暴力や、人格や尊厳を踏み躙る不正義を目の当たりにする時「七の七十倍の赦し」は安売りに過ぎると感じる。*だが、イエスの譬話は、赦しを「あなたと私(=神)」という、極めて親密な関係性の中で語っていることに留意したい。神に自らの理不尽と不正義を無償で赦され贖われた「私」が、自身の負わされた「傷」について無限に赦すのだ。神の無限の赦しへの感謝の応答としての「赦し」の姿勢が問われている。

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2009年09月13日

9月13日 一人、二人、三人

一人、二人、三人
マタイによる福音書 18章10〜20節

天の国の譬えシリーズに続いて「天の国」に招かれている者の共同体の姿が語られる。*「迷い出た」たった一匹の羊を捜し求める羊飼いがキリストの姿であるとすれば、その羊飼いに「置き去り」にされても「山」に留まり、見つけ出された「羊」を再び仲間に迎え入れる99匹は試練に耐え、成長する信仰の共同体の姿だと読める。*この「迷い出た」羊のような「最も小さな者」を軽んじない交わりは、同時に、互いに教え諭して支えあう「赦し」に基礎付けられたものとなる。一人の誤りを二人、三人が親しく愛情をもって諭し、その誤りからの立ち返りを祈るのだ。*そのような、他者への節度ある関心と寛容に支えられた共同体は、「イエスの名」のもとに可能となる。前代未聞・空前絶後の忍耐と寛容=十字架の贖いと復活の命の主に従うものはみな、その忍耐と寛容を身にまとうよう招かれる。
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2009年09月06日

9月6日 天の国の司書

天の国の司書
マタイによる福音書13章44節-52節

「天の国」譬シリーズ第二回。*「天の国」は全財産と引き換えても惜しくない「畑」であり「真珠」、また色々な魚で満杯の漁網だとも言う。そして「終わりの時」が示唆され、そこでは「良いもの」だけがはっきりとより分けられ、収穫される。*良い土地も、最高級の真珠も、また網にかかった大きな魚たちも「良いもの」、なにものにも替えがたい「天の国」の収穫に相応しいものなのだ。*だから、天の国のことを学んだ者は、その数々の良いものを、時と空間と多様な分類を縦横無尽に往来し、自由自在に取り出し、また収納する「司書」のような存在となる。*私たちは、「天の国」の広大で複雑な蔵に福音の実りとして「収納」されるだけではなく、その蔵から恵みの数々を自在に取り出し用いる「学者=司書」として仕えるようにも召されている
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2009年08月30日

8月30日 天使と悪魔の棲むところ

天使と悪魔の棲むところ
マタイによる福音書 13章24節-43節

今週からしばらくは「天の国」のたとえを読む。*「天の国」は、或は麦畑のようであり、成長する種のようであり、また捏ね鉢の中のパン生地のようである。どれも人の労作と共に不思議な力が働いて成長し、完成を迎える。そして人はその「結果」によって満足を得る。*日課は、最初の「毒麦の混じった畑」の譬えが後でイエス自身によって解説される、という枠構造を持っている。解説によれば、この世は天使と悪魔の棲むところであって、世の終わりにはその住み分けが一掃されて、「天使たちと正しい人たち」だけの世界になるのだ、という。*だが「世の終わり」が来るまで決定的瞬間はやってこない。私たちは未だ結果の出ない「過程」を、天使も悪魔もない交ぜに棲む世界で、蒔き、育て、刈り入れる。天の国とは、完成への過程そのものか?
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2009年08月23日

8月23日 かぞくのきずな

かぞくのきずな
マタイによる福音書 12章43節-50節

イエスが宣教活動に一生懸命になっている時に、イエスの肉親がやってきてイエスと話そうと外で待っている。だがイエスは兄弟や母をも無視するようなことを言う。「自分に聴き従うものは皆自分の兄弟姉妹だ」と。*ルカやマルコにも同様の記事がある。そしてどの記述も、イエスは実の家族より自分の志に生きることを選んでおり、それを理解しない家族に用はないのだ、という態度を取るように読める。*家族のきずなと、信仰の仲間とのきずなを秤に掛けようというのか。礼拝の共同体を「神の家族」と呼ぶときの、その「家族」とは一体何なのか、鋭く問われる。
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2009年08月16日

8月16日 狼と羊、蛇と鳩

狼と羊、蛇と鳩
マタイによる福音書 10章16節-25節

「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」。*「蛇のように賢い」とは、創世記の物語を思い出せば、被造物の中で一番賢い、ということだ。「鳩のように素直」とは、ノアの願いに従い洪水の後に陸が現れた最初の知らせをもって戻る無垢な姿からの連想か。*賢明な素直さ、それは清濁併せ呑んで尚、静謐を保つ毅然とした姿を示唆するのだろう。そのような凛とした姿勢がなければ恐らく、狼の群れに投げ込まれる羊のように無防備なままで、試練の中へと歩みを進める勇気などわいてこないだろう、と思う。*私たちの信仰は、全く寄る辺のない厳しい状況の中へと、わたしたちを押し出すのだ、とイエスは断言している。強いられてでなく、自ら選んで「危機」の只中で福音の証し人となるために、「洞察と受容の姿勢」が求められているのだ。
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2009年08月09日

8月9日 人は何かのために生きるのか

人は何かのために生きるのか
マルコによる福音書 2章23節-28節

安息日。それは神の創造の業を記念し、人もまた一切の労働から解放されて神の恵みを充分に味わうようにと定められた日。*安息日に、人も、この被造世界も、充分な休息の中で真新しくされる。それは将に、造られたもの全ての命の更新、魂の癒しのためにとりおかれた特別な一日だ。*この聖なる特別な日に、イエスはしばしば律法学者たちの非難の的になるような行動を取る。今日の物語でも、イエスはこの「労働してはならない日」に「労働」と見なされる行為を公然とやってのける。*律法学者の批判は、またもイエスには直接向けられない。だがイエスは頭の後ろでその非難を聴いて応答する。その言葉は、休息という聖なる行為と、人の生の本質を捉えなおすよう私たちに迫る。
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2009年08月02日

8月2日 生贄ではなく、憐れみを

生贄ではなく、憐れみを
マタイによる福音書 9章9〜13節

マタイは収税所に座っていた。自分と同じユダヤ人から通行税や関税を取り立てるためだ。マタイは、こうして収税所の「小役人」として富豪の主人に仕えて一体どのくらいの収入を得ていたのだろう。この収税所に座っていることで我慢を強いられる非人間的取り扱いの数々は、彼の得る収入に果たして見合ったものだっただろうか。*マタイは、争いや揉め事をずっと避けて生きてきたに違いない。さっさと「負ける」ことで自分の安全と家族の生活の安定を確保して来たのだろう。*だが、今「負けること」に慣れきった一人の男が、恐らく人生で最初に自分のために行動しようとしている。ため息に満ちたマタイの人生は、「負け組」の彼のその優しさの故に安らぎに満ちたものへと変化する。
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2009年07月26日

7月26日 信じたとおりに

信じたとおりに
マタイによる福音書 8章5〜13節

ローマ軍の百人隊長がイエスの足元に跪(ひざまず)き部下の病を癒してくれるようにと懇願する。イエスはこの願いを間髪をいれずに聞き入れる。*所はカファルナウム。イエスの故郷・ガリラヤ地方の中心的な大都市。ガリラヤ湖で水揚げされる魚も農産物や加工品も殆どがこの町で売られて漁師や農民、職人たちの現金収入となった。なぜなら、この町は「基地の町」だから。*ローマ軍大隊がこの町に駐屯し、町は「侵略者の軍隊」の生活を支えることで息をしていた。ローマ人への感情が微妙なバランスで存在する町で、イエスは「敵」の中に血の通った人間と、純粋に信じる心の存在を見ることになる。*「信じる気持ち」が私たちを取り囲む差別や抑圧の枠組みを乗り越えて福音の喜びに触れる物語だ。
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2009年07月19日

7月19日 その実によって

その実によって
マタイによる福音書7章15節-29節

私たちの、人間としての真価が明らかになるとき、それは恐らく生死を分けるような危機的な瞬間ではないか。私たちのことばが、果たして実のあるものなのか、それとも口先だけのことなのか、それは「終末的」瞬間に暴かれるのだ。*「プロテスタント信仰は行為ではなく口で告白され心で保たれる信仰による救いを信じる」。確かに。だが心に信じて口で告白される、その信仰の「真価」はやはりその「ことば」が「肉となる」かどうかによって問われているのではないか。*羊の皮がべろりと剥がれて狼の本性が現れるのか、或は天変地異に際してガラガラと崩れ落ちる砂上の楼閣を呆然と見つめるか、或は・・・。*願わくは私たちの言葉と思いとが「良い実」を結ぶ道を共に歩みたい。
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2009年07月12日

7月12日 本当にほしいもの

本当にほしいもの
マタイによる福音書7章7節-12節

「山上の垂訓」は、簡素だが含蓄の多い語りが、まるでファッションショーのキャットウォークを行くモデルたちのように、装いも魅力的に次々に現れる。*そこで、今日も一際心に引っかかった言葉に注目する。「求めなさい・・・」の下りだ。*persistence という英語がある。辞書で調べると「固執する」(どうもイメージが暗い・・・)が一番にリストされるが、英語の文脈の中では「持続すること・不屈の精神・粘り強さ」という肯定的な意味が強調される。*一つの事柄を、諦めず、悪びれず、ひがまずにひたすら追求してゆくこと。それは、そのことやものが自分にとって本当に必要であることを信じ、必要なものは神が必ず与えられるという希望に裏打ちされた証しの営みなのだ。*全身全霊を傾けて、何の後ろめたさもなく神に求め続けることのできる「本当に必要なもの」を共に見出して行く群れでありたい。
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2009年07月05日

7月5日 神の国と神の義を

神の国と神の義を
マタイによる福音書6章25節-34節

7月の福音書日課は連続してイエスの説教=山上の垂訓に聴く。*蒔かず、刈らずの空の鳥や野の花のように、明日の思い煩いを捨てて今日を生きよ、との言葉。カルヴァン主義の伝統に少なからず繋がる「勤勉な」私たちの信仰は、この言葉にどうしても全身全霊を委ねることが難しいのではないか。*「堅実さ」を至上とする私たちの生活倫理をイエスの言葉は根底から揺さぶるように思われる。だが、イエスが求めているのは明日の自分の生活の心配に優先して「神の国と神の義を求めよ」とうことなのだ。*「神の国と神の義を求める」ことは明日の生活の心配より遥かに遠い未来への視線を要求する。遠く広く想像力を働かせ、今日一日を恰(あたか)も「神の国」の時間の如く生きる群れでありたい。
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2009年06月28日

6月28日 私のとなりびととは誰のことですか

私のとなりびととは誰のことですか
ルカによる福音書 10章25節-37節

この律法学者は相当焦ったに違いない。あなたの答えは全く正しいと、このナザレ出身の流しの説教者にするりと受け容れられて。*自己正当化に汲々とするとき、私たちは大抵自分の墓穴を掘る。この律法学者もそうだ。自分で仕掛けた「罠」に自分で嵌りに行くのだ。*「私の隣り人は誰か?」という問いは、なんとも自己中心的な問いだ。自分は世界の真ん中に立って辺りを見回し、自分の「隣り人」に値する存在を捜そうというのだから。*イエスは「だれがこの痛む人の隣り人になったのか」と問う。それは私たちを安穏な「自分の城」から引きずり出し、今この世界で踏みしだかれ、傷つけられているあらゆる小さい命の視点と価値観の中に自分を晒すことを要求する。*イエスは私たちの隣人となるためにこの世に来られた。だから、イエスに従う信仰の群れもまた、「同じように」振る舞い、生きるのだ。
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2009年06月21日

6月21日 星のように

星のように
フィリピの信徒への手紙 2章12節-18節

神のみ心に生きるなら、時代や社会がどのように荒れ狂っていても、いや、そうであればこそ尚更に、礼拝に集うひとりひとりが「神の子」として、「星のように」輝いて、命の言葉を保つのだ、と使徒パウロは説く。*星は、夜空に輝いて砂漠や海原を行く旅人に行くべき道を教える。イエスの誕生の時に駆けつけた賢者たちも、真っ暗な砂漠の空に輝く星を手がかりに旅したし、神の呼びかけに応えて生まれ故郷を旅立ったアブラハムもまた、満天の星を見上げて神の祝福の約束を何度も心に刻んだ。*キリスト者が良い業に励むのは、自らの救いのためだけではない。寧ろ、神の言葉に生きるその姿勢が、世の旅路に迷う全ての人の道しるべとなるべく、召され、導かれ、生かされているのだ。
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2009年06月14日

6月14日 神の住まいとなる

神の住まいとなる
エフェソの信徒への手紙 2章14-22節

創世記の天地創造神話は、神がご自身の言葉で宇宙の全ての存在を作り出した、と語る。そして人間は、その創造の業の「画竜点睛」の作として大宇宙の秩序の中に生き、植物や動物、全ての命を慈しみ育て、共に生きるようにと祝福を送ったと言う。*使徒パウロは、神の創造の業に顕れた愛と、そして造られた全ての命を守り育まれる不思議な計らいが、教会という礼拝共同体の創造とその成長にも同じく働くと考えた。*信仰の先達を土台に、そして、キリスト・イエスをこの土台の要の石として、私たちは、一つの命、一つの体として組み上げられる。教会に集う「神の似姿」に造られた私たち一人一人が神の手の業と聖霊の働きによって、聖なる「神のすまい」へと成長を遂げるのだ。
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2009年06月07日

6月7日 解説不能

解説不能
マタイによる福音書 11章25-30節

「父の他に子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者の他には父を知る者はいません。」*イエスは神を知る者は自分と、自分が選んだ者だけだ、と言っているようだ。子=イエスを通してしか私たちは神も、神のみ心も知ることは不可能だと。*言葉では説明のつかないことが私たちの世界にはある。神とはどんな方なのかも、その《解説不能》の問いの一つだ。そのヒミツは私たちには開かれていない。*しかし、神と顔と顔とを見合わせて問い、また問いかけられる、その立場は重い。そのような「くびき」は私たちには負いかねる。だから私たちは、子であるイエスの下へと呼び寄せられ安息を得る。*だが不思議にも、その安息のうちに私たちは皆、神がどんな方か必ず知ることになる。
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2009年05月31日

5月31日 老人は夢を見、若者は幻を見る

老人は夢を見、若者は幻を見る
ヨエル書 2章23節-3章2節

大きな損害は償われ、極限の飢えと渇きとは満たされる。そして、民は創造と解放の神が自分たちの生の只中におられることを味わい、この神以外に神はないことを深く知るようになる、そう預言者は告げる。*そして、「その後」、満たされ、癒され、神を知った民の上に神は聖霊を注ぐ、とヨエルは預言する。男にも女にも、年若いものにも老人にも、そして自由人にも奴隷にも。*聖霊は、性別も年齢も社会的な役割や身分・階層といった束縛も全て乗り越えて私たちを揺さぶり起こす。荒々しく、しかし新鮮な変革の力が、将来を夢見、目指すべき幻を描いて実現する意思と勇気を私たち一人一人に与える。*何より大事なのは、神はこの荒々しい力の霊を、実り豊かな収穫の約束と共に与えられることだ。神は私たちを空き腹のままでは送り出さない。*聖霊の息吹に新しくされ、身体と魂の糧に養われて、大胆に夢みる群れでありたい。
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2009年05月24日

5月24日 キリストに向かって

キリストに向かって
エフェソの信徒への手紙 4章1-16節

カイサリアの牢の中から使徒パウロはエフェソの教会へと手紙を書く。3年間自ら育てた信仰の群れが今、霊的危機に直面しているからだ。*「偉大なる使徒」パウロなしで、エフェソの教会は自主自立の歩みを始めることを強いられた。だが彼らはパウロが自分たちから去ると途端に不安になる。何をどうしたらキリスト者「らしく」生きることができるのか。*パウロは彼らの不安に端的に答える。それはただキリストが私たちを愛してくださる愛に根ざして生きることだ、と。そしてその愛ゆえにそれぞれに与えられた「賜物」=この世での務めをそれぞれに誠心誠意尽くすことである、と。*姿は見えなくてもキリストは私たちの真心ある言葉と行為を通して共に居られる。
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2009年05月10日

5月10日 愛する人は光の中に

愛する人は光の中に
ヨハネの手紙T 2章1-11節

キリスト信仰は「信じて義とされる」のだから「心」の問題なのだ、と考える人が相当数ある。「行為」は関係ないのだ、というのがその裏側にちらつく。*だがヨハネは、信仰は必ず「実体化」すると力説する。「兄弟を愛する人は光の中を歩む」という主張は、人間の内面世界=霊性が「生き様」そのものとなることの確信に満ちている。*隣人を愛するこという精神活動と、神の正義の実践=掟を守るという社会的実践は肉体に魂が宿って初めて人間が健やかに生きるように、「一体」のことなのだ。*信仰者の内的生活が真に神の召しに応えようとするものなら、その「心」は実体化=受肉せずにはおかない。信仰者の生活の中で「ことばがからだとなる」神秘が実現する。そこにこそ証しの務めの真骨頂がある。
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