2010年03月28日

3月28日 主の名によって来られる方

主の名によって来られる方
マルコによる福音書11章1-11節

イエスは遂に、過越祭の準備に沸くエルサレムに到着する。過越祭はイエスの時代には強い政治性を帯びていた。エジプトの圧制をローマ帝国の帝国主義に二重写しにしながら、「異邦人」の支配を打ち倒してイスラエルに自由と勝利を与えられる神の救いの時の到来への、差し迫った期待がエルサレムに渦巻いていたことだろう。*その熱気の只中に、イエスは、借り物の、幼いロバの子の背に乗って入城される。それはゼカリヤの預言の言葉の成就を体現しつつ、「主の名によってくる方」がもたらすべき「救い」の真実の姿は、私たちの思い描く猛々しく雄雄しい姿とは全く対極のものであることが示される。*「主の名によって来る方」は全く無防備だ。丸腰の、まるで道化としか見えない「王」はしかし、命を奪うためでなく、自らの命を与えるため、ただ仕えるために来る。
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2010年03月21日

3月21日 牧師は僕師?!

牧師は僕師?!
マルコによる福音書 10章32〜45節

ゼベダイの二人の息子たちが、イエスが「栄光を受けるとき」にその玉座の右左に座らせてほしい、と願い出た。イエスは「それは私の決めることではない」と突き放す一方で、二人がイエスの受ける苦難と同じものを担う者であることも預言する。*二人の願いは、イエスの三度目で最後の受難と復活の予告の直後に持ちかけられるのだから、イエスが言及する「私が飲む杯を飲み・・・受ける洗礼を受ける」ということが、死に至る受難を示唆することは間違いない。二人は果たして、自分が受けたいと望む「栄光」の真実の姿を理解できていたのだろうか?*イエスの受ける「栄光」は、この二人の弟子の野心とは無縁だ。それは、食事の席で、前掛けをまとい地面に膝をついて弟子の脚を洗われるイエスの姿に収斂する。*全く自由な従順と奉仕の姿勢の内に、み子の栄光は輝く。
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2010年03月14日

3月14日 これに聴け

これに聴け
マルコによる福音書9章2-10節

受難節の真ん中で、私たちは栄光に輝く主の姿に出会う。*弟子たちは、イエスの山上での「変容」に畏れ慄きすっかりうろたえてしまう。しかしその「変容」の姿こそは、イエスの、「神の子」としての真実の姿なのだ。*「真実」を目の当たりにして私たちは往々にして慌てふためく。そしてその真実に注目せず、また耳を澄まさずに、とり散らかった自分の態度を取り繕うために無駄に言葉を発する。*「三つ祠を建てる」と口を滑らせるペトロの姿は正に私たちの姿でもある。啓示された神の真実、救いの全体像はしかし、小さな祠の中に収めて安置するわけには行かないほどに壮大だ。*神の救いの真実は私たちの想像の限界を軽がると超えて歴史の始から終わりまでを覆い包む。「これに聴け」との呼びかけは、その遠大な救いの物語に注目し傾聴するようにとの招きだ。
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2010年03月07日

3月7日 土はひとりでに実を結ばせる

土はひとりでに実を結ばせる
マルコによる福音書4章26-32節

受難週第3週の礼拝の招きは「私は主に向かって ”目を注ぐ=Oculi”」という告白ではじまる。神に向かって声を上げ(Invocavit)、その憐れみと慈しみを思い起こして(Reminiscere)欲しいと祈り求める私たちは、やがて救いの主である神に目を注ぐ様にと誘われる。*そこには、私たちの呼びかけに応え、ご自身の憐れみを思い起こして私たちに神が注がれる慈しみの眼差しへの気づきがある。見上げる人の眼差しと、その眼差しに応えて何一つ見落とさずに包み込む神の憐れみの眼差しが交差する。*私たちのあらゆる部分を見通しその破れと共に、悲しみ、痛み、孤独や絶望の底まで静かに包み覆う神の眼差しに畏れと感謝をもって出会おう
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2010年02月21日

2月21日 荒れ野へ

荒れ野へ
マルコによる福音書1章12-15節

ヨハネから洗礼をうけた直後イエスは荒れ野へと向かう。マルコは全ての福音書の中でも最も簡潔にこの下りを記す。*荒れ野でイエスを待ち受けるのは、「サタン」とその誘惑だと記されているが、それがどんな誘惑であったのかは記されない。判るのは、イエスが40日もの間、荒れ野で、極限の状態に自らを置いて過した、ということ。*マルコはまた、このイエスは野獣と共にいたが同時に「天使」も彼に仕えていたという。イエス自身は寄り添う天使に気づいていたのだろうか。*「荒れ野」は私たちの肉体を苛(さいな)む具体的な「場」であると共に、私たちの内面を吟味するあらゆる状況の象徴でもある。だが、そのような試練の只中にも神は「天使」を送って練達の過程を見守られる。*福音宣教のために身体と魂とを準備されるイエスの自己吟味の深みへと降りて行こう。
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2010年02月14日

2月14日 起き上がる

起き上がる
マルコによる福音書2章1-12節

一人の男が癒しを求めてイエスの所に連れて来られる。身体の麻痺に苦しむこの男を担いできて、更に屋根まで持ち上げ、またそこからイエスの目の前へと吊り降ろす、この4人の男たちの一方ならぬ熱意は私たちの関心を惹きつける。*男たちは、この麻痺に苦しむ人の家族であり、また親しい友人に違いない。身体の不自由を奪われ、発話もままならないであろうこの人の痛みと悲しみを分かち合う4人の心が、なんとしてでもイエスに癒してもらおうとする行動に現れる。*「罪の赦し」「癒し」そして「み子の権威」が取り沙汰される。だがそのどれ一つとして、病み苦しむ仲間への深い共感の具体的な表現の前には、その顕現が拒まれることはない。*「神の栄光」の輝きは、私たちの身体の出来事の中に現される。
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2010年02月07日

2月7日 神から見捨てられてもよい

神から見捨てられてもよい
ローマの信徒への手紙 9章1-3節

*「神から見捨てられた者となってもよい」というパウロの熱狂的 叫び。*神の民として選ばれたはずのユダヤ人が、なぜ、もはや選びを独占できないのか。民族や国籍を越えて、信じる者が新しいイスラ エルの民となることを説き明かそうとして、パウロは改めて自分が ユダヤ人であることを思い起こし、同胞への愛に引き裂かれる。そ して同胞のためなら、キリストから離れ、神に呪われてもよいと叫 んでしまう。もちろん、自分を神から引き離すものは何もないという信頼が、その叫びの心底にはあるのだが……。
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2010年01月31日

1月31日 種と土と労する人と

種と土と労する人と
マルコによる福音書 4章1-9節

種を蒔く人が種をまきに出て行った、とイエスは語り始める。撒かれた種は落ちた地の条件によって、様々な成長の結果を生む。*第二次世界大戦後のアジア・アフリカの教会は、この譬話の従来の「教え」を見直しにかかった。即ち、「種」からの実りが「クリスチャンの数」だと考えるキリスト教覇権主義を離れ、それぞれの「土地」=福音を受け容れる人間が、それぞれの文化や歴史・政治の文脈の中でいかに豊かな「証し」を生み出すのかということに心を向けたのだ。*福音=イエスの言葉は、この譬話の「種」のように、この世の隅々にまで撒かれるだろう。そして撒かれたその場所で、それぞれに実を結ぼうとする。問われるのは、私たちが豊かでユニークな証しを生み出す「良い地」として自分自身を耕し、よき「農夫」=福音の使徒として生きているか、ではないか。
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2010年01月24日

1月24日 新しい教え

新しい教え
マルコによる福音書 1:21-28

カファルナウム(「慰めの村」)はガリラヤ湖畔の町で、マタイ福音書では、イエスはこの街を「自分の街」だとさえ言うほどに親しんでいたようだ。*地方首都のティベリアスと比べると小規模で、ローマ帝国とユダヤ神殿税などの複数の税の取立てに喘ぐ貧しい人が住民の大半を占めるこの街には、イエスの生活感覚と同じ日常があったのだろう。その場所でイエスは「律法学者のようではなく、権威あるもののように」教え、振舞った、という。*律法学者は、過去の碩学のことばを縦横無尽に引用し、自分の引用するその碩学の名前や引用の数で自らの解釈の正しさを競ったようだが、イエスはそうしない。彼は、誰の解釈の引用だとも、どの学派の仕来りだとも言わずに、直接に預言者たちの言葉を聴き、味わい、感じ、そして行動する「教え」を掲げた。*「新しい教え」は、神の言葉に傾聴し、その促しに柔軟に向き合うものの心に実体化する。
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2010年01月17日

1月17日 網を捨てて

網を捨てて
マルコによる福音書 1:14-20

ペトロたちの「網」、ゼベダイの息子たちの「船・父親・雇人たち」は彼らの生活の糧を支える道具であり社会の枠組みだ。
それらを「捨てて」イエスに従う4人の元・漁師たちの姿に私たちは何をみいだせば良いのか。*この時代に世界帝国となったローマ帝国は私たちの今日の社会に負けず劣らず、高度に発達した資本主義・貨幣経済社会であった。帝国の中では辺境の地であるユダヤもこの巨大なグローバル・キャピタリズムに飲み込まれていた。*ローカル漁師の「網」や「船」、網元ゼベダイの家父長権は、ガリラヤの地でローマ帝国の資本が力を持つためのメディアではなかったか。だから、人間を、イエスのみ国のために「漁どる」者は、資本という暴力から自由な存在でなければならなかったのではないか。
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2010年01月10日

1月10日 新しい生き方

新しい生き方
マルコによる福音書 1章9-11節

四福音書が揃って記録するイエスの物語の最初は洗礼の場面だ。*ヨルダン川で「悔い改めのバプテスマ」を授けていたヨハネの元には大勢の人々がやってきてその教えを聞き、彼から水洗いの儀式を受けていた。イエスもそうした群衆に混じって罪の告白を成し、水に洗われて新しい人生を歩み出した。*洗礼は「古い自分に死に、新しい自分に生まれ変わる」時であるとも言われる。イエスもまた、古い生き方を洗い落として全く新しい生き方へと方向を転換する。*「神の子」として生まれたにも拘らず、イエスはその「特権」に固執しない。私たちと同じ地上の生業で糊口(ここう)を凌(しの)ぎ、「罪」を知り、そしてそこからの解放を請い願う心を分かち合う。*「これは私の愛する子」とは、新しい生き方を願い求める全ての人への神の祝福の言葉だ。
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2010年01月03日

1月3日 居るべき場所に

居るべき場所に
ルカによる福音書 2章41-52節

降誕の物語は、「居場所」の問題をめぐる物語であるとも言える。*神の子が、天から下って飼葉おけの中を自らの場所として地上の命を歩み始める。羊飼いたちは、荒野から来て人々の中へと散ってゆく。星占いの博士たちは、故郷を遠く離れて旅し、また自分の場所へと帰ってゆく。但し、「別の道」を通って。*ヨセフとマリアもまた、旅を続ける。彼らの居場所はナザレの里。しかし、イエスの「居場所」はどこだろうか。*12歳、恐らくバル・ミツバを終えたイエスは、「一人前の男」として初めて過越祭をエルサレムですごしたのであろう。その祭りの興奮の中で「事件」は起こった。*「こども」でもないが、オトナでもないイエスはしかし、この「事件」の中で自らの居場所を決然と、自ら宣言する。《神殿》が自らの「父の家」だという息子の言葉を両親はどう聞いただろうか。*居場所を探す旅は私たち自身の生涯の旅でもある。
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2009年12月27日

12月27日 別の道を通って

別の道を通って
マタイによる福音書 2章1-12節

東からやってきた星占いの博士たちの物語。マタイに特徴的なクリスマス物語でもある。*「遠い異国」からやってきた知恵ある人たちの、無垢で率直な問いかけが権力者の心をざわつかせる。「真の王」の誕生を知らされた不安定な権力者は、自らの仮想「敵」を容赦なく抹殺にかかる。救い主の誕生の喜びの輝きと表裏一体の、私たちの世の「闇」がここにも暴かれる。*イエスの誕生、という一瞬の光の時間をはさんで、再び闇の到来が告げられる。私たちの世の現実=神の支配を退けようとする「闇」の迫り来る中、博士たちは「別の道」を選んで、再び自分たちの場所へと帰ってゆく。*「別の道」という言葉に意味深長なものを感じない人はいない。救い主の誕生に見(まみ)えるために辿った「道」とは全く別の道を、今、私たちは自分で選んで、ここからあゆみはじめるよう促される。
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2009年12月20日

12月20日 福音はどんでん返し

福音はどんでん返し
ルカによる福音書 1章39〜59節

預言書の日課も福音書の日課も最初の子どもを宿した女性が歌う賛歌である。*どちらの女性も驚きと喜びに満たされている。だが二人の女性の間には大きな違いがある。ハンナの場合は、切望していた子を愛する夫との間に与えられる、という円満解決の設定だが、マリアの場合はこの受胎によって社会的生命の危機に立たされる。*ハンナは望んでもなかなか「母」となれなかった自分自身を「弱い者・低くされた者」として、その自分を神が高く引き上げ喜びを与えて下さった、と歌うのだが、マリアの場合はその受胎によって汚名を受けることを強要され、許婚にも苦悩を味あわせることになる。*二人の女性はどちらも神を「偉大な方」と賛美する。だがクリスマスの賛美は、マリアが体験したような人生の危機の只中にあるにも拘らず、そのどん底に実現する神の勝利、その究極のどんでん返しの喜びを、先取りして歌うものなのではないだろうか。
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2009年12月13日

12月13日 先駆ける者の喜び

先駆ける者の喜び
マルコによる福音書 1:1-8

喜びのおとずれは、時に荒唐無稽な「呼び声」によって告げ知らされる。その「呼び声」は往々にして人々に混乱や不安をもたらし、時に激しい抵抗に会い、或は無視される。*砂漠に花など咲かないし、荒れ野には乾いた風が吹くだけで慰めの気配など有りはしない。厳しい地形を平らにして道を通せなどと馬鹿馬鹿しいし、駱駝の毛皮を纏って野宿をしイナゴを食べているような人物の言葉などに誰が耳を傾けるだろう。*だが、そうした突飛とも思える言動こそが、「神の時」は漠然とした「未来(いまだきたらず)」の現象ではなく、確実な「将来(まさにきたらんとす)」に切迫した衝撃的出来事であることを私たちに否応なしに印象づける。*古い預言が今、ここで思い起こされる。その現実性・緊急性を体現する「先駆け」(それは道化か?)の務めを、礼拝の群れは負わされる。
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2009年12月06日

12月6日 立ち返りへの招き

立ち返りへの招き
マルコによる福音書 7章1〜13節

預言者エレミヤは書記者バルクを用いて「古からの」神の言葉を民に告げる。それは神と民の間に結ばれた契約を思い起こさせ、その契約=祝福の約束への立ち返りを呼びかけるものだ。神の怒りとその「裁き」が強調されるが、その厳しい言葉(何が語られたかは不明)は、神との和解への招きであることは間違いない。*福音書のイエスの言葉もまた、鋭く怒りに満ちている。神のことばそのものではなく、その周りに築かれた「解釈」が先行し、そのために隣人との平和が崩れ、よって神との和解のうちに生きることが妨げられる「歪み」をイエスは見過ごしにはしない。*「悔い改め」とは神との和解と隣人との平和を実現する生き方への方向転換なのだ。
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2009年11月29日

11月29日 最高の無駄遣い

最高の無駄遣い
イザヤ書 51章4-11節 マタイによる福音書 26章6-13節

イエスが大変高価な香油を注ぎかけられる話は四福音書全てに収録されている。今朝のマタイの記事は、名もない女性が、過越祭直前のベタニア村でイエスに油を注ぐという筋立てだ。*香油は「大変高価」だと言う。ユダヤ社会では財産の相続もできない女性がそのような香油を賄うのは並大抵のことではない。しかし彼女はその高価な香油を惜しみなくイエスのために使う。*頭から油を注ぐ、という行為はイスラエルの王の即位の儀式であり、神に選ばれた「メシア」の任職の儀式だ。古の王国では預言者(男性!)が王にこの儀式を施した。それは王の正統性を証し、また油を注ぐ預言者を通して神の栄光を知らしめる行為だった。*名もない女性がナザレの大工の息子を「メシア」として宣言した。そして彼女の奉げ物は確かに、世界中で今日も「記念」として語り継がれる。
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2009年11月22日

11月22日 心で観る神

心で観る神
サムエル記上 16章1〜13節

サムエルは民にせがまれ、イスラエル全軍の中で最も背が高く勇ましくハンサムなサウルを王に選んだ。だが「立派な」外見の王はサムエルにとって今や嘆かわしいほど王に相応しくない存在となる。王は神の預言者たるサムエルの言葉に聞き従わないからだ。*サムエルは極秘で新たな王を即位させるために出かけてゆく。ベツレヘムのエッサイの息子の中に王を見出した、との神の言葉に従って。*ところが神が選んだ王はほんの少年だった。大切な客人との家族の会食の席にも呼ばれない末の息子こそ、神が王として立てる人物だという。*「心によって」神は人を見る、と宣言される。王の任務を担う者は、私たちの価値観の満足のために仕えるのではなく、神の選びとその支配を全身で受け止める存在として立てられる。
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2009年11月15日

11月15日 少年の持ち物

少年の持ち物
ヨハネによる福音書 6章1節-15節

過越祭も近い頃、というのだから、地中海地方はもう春麗の頃。イエスはそこで静かな時間を持つつもりであったに違いない。ところがその退修の場にも群集がイエスを求めて押しかけた。*押しかけた大勢の人の空腹を癒すために、イエスは少年の持っていたパンと魚を用いられた。それらの食べ物は、ペトロにとって(そして私たちにとっても)、必要とされている分量に比して取るに足らない物だ。だが、その「お話にもならない」ほどの食べ物が、神の恵みの不思議を証しするために用いられる。*名も知れない少年の携えていたパンと魚が、イエスの手の中で、彼一人の「命の綱」から、イエスに付き従う群れ全体の命の糧へと変えられる。祝福の徴として選ばれるのは、得てして名もない小さな存在の精一杯の捧げ物なのかも知れない。
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2009年11月08日

11月8日 天を仰いで

天を仰いで
創世記 15章1節-18節

老年に至っても跡継ぎを得ることが叶わないアブラハムは、神にその嘆きをぶつけた。すると神はアブラハムの夢に自ら現れ「子孫繁栄」の約束をくり返す。物語は、アブラハムがその啓示を信じたので「そのことで彼は彼を義と認めた」と締めくくる。*夢で与えられた約束の言葉を信じたアブラハムがその信仰によって神に義と認められたのか、或はアブラハムが信仰の内に神を義と認めたのか、ヘブライ語原典は読み手にその解釈を委ねる。*いずれにしても、莫大な財産を得ながらそれを受け継ぐもののない空しさを、神の(空?!)約束の言葉に信頼しつつ、満天の空の星を見上げながら飲み込んだアブラハムの心中は複雑だ。*自ら歩んだ人生とその実りが誰かに受け継がれ更に豊かな実りをもたらすことを願わぬものはない。満天の星が人に見せつける悠久の神の時と被造宇宙の広大さの前に、自らの儚さと、命の繋がりの不思議とを思って嘆息したアブラハムと共に、私たちも天を仰いで、神の約束に信頼する旅を歩み続ける群れでありたい。

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