2009年11月01日

11月1日 どうして?

どうして?
創世記4章1節-10節

「どうして顔を伏せるのか?」。理由もなく弟アベルの奉献は祝福する一方、兄カインのものは拒否しておいて神はカインを問い詰める。だが「どうして?」と聴きたいのはカインの方に違いない。*創世記の物語は読み方によってはえこ贔屓のオンパレードだ。この物語もまた、理由なく労働の価値を拒否されたカインが怒りと嫉みに任せて過ちを犯す物語だ。*どうして神は弟と兄とを比較するのか。何故カインを怒りと嫉みに晒してその忍耐を試すのか。*「戸口で待ち構える罪を制御せよ」と神は命じたが、カインはその期待に応えられない。だが償い切れない罪を背負い故郷を去るカインに印を付けて見守るのもまた同じ神だ。*弟の命の代償にカインが得た神の注目はあまり重い。「エデンの東」のまだ東へ印を帯びて流離(さすら)うのは私たちでもある。
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2009年10月25日

10月25日 主による訓練

主による訓練
ヘブライ人への手紙 12章5節-11節

「ヘブライ人への手紙」は通常「公同書簡」に分類され、特定の「読み手」共同体を想定せず(コリントやフィリピの教会宛ではなく)、広くキリスト教界に宛てられた「送り主不明」の書簡だ。*紀元1世紀末、ローマ帝国の迫害を経験し、「終末」の到来の遅延に戸惑いながら、「この新しい信仰は間違いだったかもしれない」と迷う人たちが相当数いた。中でもユダヤ教から改宗した人たちは、「アブラハム・イサク・ヤコブの神」を信じる民族の伝統的生活へと帰ることが「得策」であると考え始めたのだろう。*そうしたユダヤ主義への傾倒や回顧を、この手紙の著者は真摯に諌める。「試練は伝統的信仰への背きの罰ではなくキリストにある成長への訓練だ」という勧告は、与えられた習慣としての信仰と、自ら決断して招きに応えた信仰との間で迷い悩む「ヘブライ人」に、時代を超えて向けられている。
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2009年10月18日

10月18日 真夜中の花婿

真夜中の花婿
マタイによる福音書 25章1節-13節

ユダヤの伝統では婚礼に臨んで新郎新婦は断食をし、門出に際し「真新しい」人間となるよう神の前に罪の赦しを請う。婚礼の祝いはだから、神の赦しの寛大さに感謝し、罪を赦され命を更新された二人と共に、祝いに集う共同体もまた新たな命のサイクルを与えられることを祝う場でもある。*そんな重大な祝いの席に、花婿は遅れてくる。何時やって来るのかさえ誰にも解らない。*婚礼の約束は絶対だ。花嫁に明確な落ち度がない限り破談は有り得ない。だから花婿は必ず来る。そこで花婿を迎える乙女たちは、必ず来るが何時来るか解らない花婿を待ち構え、準備万端、門の傍に控えるよう求められる。*通常ユダヤの婚礼は夕刻から始まるから花婿の到着が遅れれば当然夜も更ける。だから「知恵ある者」は灯火を絶やさない準備を整えた。*真夜中の闇を衝いて「命の更新」の時は訪れる。私たちはその時を準備万端で迎えるよう招かれている。Keep your lamps, trimmed and burning.
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2009年10月11日

10月11日 神の支配を生きる

神の支配を生きる
マタイによる福音書 22章15節-22節

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」。政教分離のプロトタイプ、などと言われるイエスの言葉だが、これをマタイの「天の国」談義のコンテキストで捉え直す。そこでは、社会的立場のない者(こども・寡婦・寄留者)、群れをはずれたoutcast、周囲のものの忍耐と赦しと受容を限りなく必要とする「落伍者」が、神の前に一個の人間として平等に贖われる世界が描かれる。*資本主義経済も格差社会の効率主義も、全て度外視される世界。この世のあらゆる既得権を無化するイエスの「天の国」は、ユダヤ社会の特権階級にとって将にスキャンダラスで革命的な言説だ。*剣も弓矢も、何の力も必要とせず、言葉と、その言葉を生きる自由な行動で、イエスはこの「天の国」を「今、ここ」に実現する。そこには「政治と宗教」といったこじんまりした分類は最早存在しない。その「分類」自体がイエスの生き方の前に無化される。
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2009年10月04日

10月4日 この、最後の一人にも

この、最後の一人にも
マタイによる福音書 20章1節〜16節

ぶどう園での労働は厳しい。地中海地方の夏、日盛りでの労働ともなれば実際のところ1デナリオンに心づけが欲しいくらいだろう。*ところが、イエスのたとえ話の農園主は、夕暮れのたった一時間しか働かなかった者にも日中の重労働を耐えたものと同じだけの賃金を払い、「私のしたい様にしてなにが悪いのか」と居直るのだという。*主人の気前よさに不平を言うのは約束通りの賃金を受け取ったにも拘らず「後の者」よりも価値ある労働をしたと考える「先の者」たちだが、能力や効率、或は年功などの汎(あらゆ)る「格差」は農園主=神の前では何ら評価の対象とはならない。*「ぶどう園」が「天の国」であるとしたなら、その「天の国」は明らかに「格差社会」とは全く異質の経済観念が優先されている。しかし「最後の一人」まで公平に報いようとする神であるからこそ、私たちは先を争い、「付加価値」を主張して他者を蹴落とす生き方から解放され、神の正義を優先する生き方を許される。
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