2010年09月26日

9月26日 揺るぐことなく

揺るぐことなく
コロサイの信徒への手紙 1章21-29節

コロサイの町は小アジア半島の内陸部、フリギア地方の商業都市だ。鮮やかな紅色に染めた羊毛で有名で、シクラメンの紅色をこの町の名前からとるほどだった、とローマ共和政期のプリニウスも書き記しているから、パウロの活躍した時代にはもうすっかり定着した名声であったに違いない。*パウロ自身はこの町を訪れてはいない。手紙の文脈からすると、弟子のテモテが、パウロ流の教会形成を根付かせたのだろう。大事な弟子が心血を注いでいる信仰の群れが、信仰的危機に直面していることを知らされたパウロは、この手紙をカイサリアの牢の中で書いたと推測される。*まだ見ぬ信仰の仲間に、恰(あたか)も顔と顔を合わせて親しく語るように、パウロは呼びかける。「あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはならない」と。*希望の福音以外の「救い」が心を揺さぶることがある。しかし、私たちは、十字架の主の苦しみの故に、そしてこの福音に命を委ねて生きた多くの使徒たちの故に「最初に聞いた」良い知らせに揺るがず踏み留まるよう招かれ、求められている。
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2010年09月12日

9月12日 惜しまずに

惜しまずに
申命記 15章1-11

9月9日はユダヤの「年頭の祭り=Rosh Hashanah」だった。この日、「イスラエルの民」は、過ぐる一年の神に対する罪を告白し、悔い改めるしるしとして、互いに対する心情的、また経済的な負債を赦しあって「貸借なし」の自由で平等な関係性を回復する。その「赦し」のなかに、神の赦しの寛容さが体験されるのだ。*この主日には預言書も、福音書も使徒書もこぞって「惜しみなく」与えあい、また神に捧げることを語っている。それは、秋という実りの季節に相応しい勧めであり、またこの収穫の時期に完全な悔い改めをもってはじまるユダヤの暦(=それは私たちの礼拝の暦の根底に流れるリズムでもある)にも共鳴する。*私たちが、自らの労働の実りを惜しみなく、真心から隣人に与え、また神に捧げ挙ることは、私たちが、神から惜しみなく与えられ、真心から愛され、赦され受け容れられている、という事実に「立ち返り」、感謝をもって、神との、「貸借なし」の自由な関係に生き直すことの証となる。
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2010年09月05日

9月5日 生涯のささげもの

生涯のささげもの
マルコによる福音書 12章35〜44節

一人の女性が捧げた銅貨たった2枚の献金が、「だれよりもたくさん入れた」のだと断言するイエスの念頭には、今朝の日課の前半で、彼が辛辣(しんらつ)に批判した「エライ人たち」の鼻持ちならない偽善がある。*社会のなかで見過ごされ、周縁へと追いやられ、存在の価値も、その声も存在の意味すら奪われている人たちの、「取るに足らない」ささげ物にスポットライトが当たる。*金持ち=社会的強者は、多額の賽銭を入れることで更なる、お金以上の「獲得」を目指している。名誉、賞賛、尊敬といったもので自らの「評価」を膨らませ称揚(しょうよう)するためだ。*一方、一人の貧しい女性の銅貨二枚の献金もまた、密やかではあっても「お金ではない」価値を渾身の祈りで体現する。それは、この女性の矜持(きょうじ)であり、社会からおしつけられた「無価値」というレッテルへの果敢な抵抗であったにちがいない。その、「反逆」の瞬間をイエスは見逃さなかった。*捧げものは、私たち自身の霊性を露(あらわ)に示すのだ。
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9月5日 生涯のささげもの

生涯のささげもの
マルコによる福音書 12章35〜44節

一人の女性が捧げた銅貨たった2枚の献金が、「だれよりもたくさん入れた」のだと断言するイエスの念頭には、今朝の日課の前半で、彼が辛辣(しんらつ)に批判した「エライ人たち」の鼻持ちならない偽善がある。*社会のなかで見過ごされ、周縁へと追いやられ、存在の価値も、その声も存在の意味すら奪われている人たちの、「取るに足らない」ささげ物にスポットライトが当たる。*金持ち=社会的強者は、多額の賽銭を入れることで更なる、お金以上の「獲得」を目指している。名誉、賞賛、尊敬といったもので自らの「評価」を膨らませ称揚(しょうよう)するためだ。*一方、一人の貧しい女性の銅貨二枚の献金もまた、密やかではあっても「お金ではない」価値を渾身の祈りで体現する。それは、この女性の矜持(きょうじ)であり、社会からおしつけられた「無価値」というレッテルへの果敢な抵抗であったにちがいない。その、「反逆」の瞬間をイエスは見逃さなかった。*捧げものは、私たち自身の霊性を露(あらわ)に示すのだ。
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2010年08月29日

8月29日 知恵の教師 イエス

知恵の教師 イエス
マタイによる福音書 5章1-12節

イエスはガリラヤ湖で四人の漁師を弟子としてまねき、ガリラヤ全土をまわって神の国の到来とその恵みを告げ知らせる宣教の旅に出かける。人々はその言葉を聞くためにイエスのもとに集まった。大群衆を前にイエスはガリラヤの丘の上から「幸い」の教えを語る。*イエスの周りにあつまった人たちの多くは貧しく、病の痛みや老いの不安、ユダヤの宗教的な権威や、政治・軍事的圧力であるローマ帝国の暴力の下で、抵抗する術もなく途方にくれているような「弱い」人たちであった。*だが、イエスはこの人たちに向かって、その貧しさと弱さ、悲しみの深さこそが神の国の「幸い」のしるしであるといい、それゆえに優しく、簡素で愛の尊さをしるものこそが神の国の「相続人」であると語る。*Beatitude「幸い訓」とも呼ばれる、イエスの最も
イエスらしい「逆転の思想」のなかに、私たち自身の生き方の刷新の希望を見出そう。
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2010年08月22日

8月22日 ぶどう畑の愛の歌

ぶどう畑の愛の歌
イザヤ書 5章1-7節

イザヤは、愛する主なる神のために、ぶどう畑の歌を歌う。その歌はしかし、ハッ
ピーエンドではない。*愛すべき主なる神が「楽しんで」植え、育んだぶどう畑は、とんでもないすっぱいぶどうの収穫をもたらす。神は、その結果に落胆し、怒り、そのふどう畑を捨てる。そのように、イスラエルの民もまた、神の愛に満ちた導きにも拘らず、流血と阿鼻叫喚の社会を生み出す。神は、そのような民を棄てる、とイザヤは歌うのだ。*亡国と捕囚の悲劇を予見しつつ、神への立ち返りを呼びかける預言者の声に、私たちは今朝、どのようなメッセージを聞くだろう?*65年を経て、灰塵と悔恨の中に立つことをしっているはずの、この国の記憶を、私たち自身が、今、歌うべき「ぶどう畑」の歌に呼び覚まし、織り込み、新しく歌うことができるだろうか。
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2010年08月15日

8月15日 平和の福音

平和の福音
エフェソの信徒への手紙 2章14-22節

エフェソの教会は深刻な内憂を抱えていた。ユダヤ伝統主義の立場をとる人たちと、「異邦人」キリスト者との交わりを育て、ヘレニズム文化に適応した信仰共同体を求める人たちとの間の確執だ。*パウロが「双方」を和解させた、という場合、このユダヤ主義者とヘレニストの「双方」を指す。*それぞれの人間が生き文化や政治の文脈は複雑で多種多様。しかし、キリストの福音は、文化や政治、主義主張の境界を止揚する。そして「民族至上主義」というエゴイズムを無化する。*ギリシャ語で「家」のことを「オイコス」という。ここから「世界=オイクメネ」という言葉が派生する。神の造られた「世界」は正に、全ての被造物の「家」なのだ。それ故、キリスト者は神の支配の下に一体となって一つの建物(=教会)を立ち上げる、というパウロの言葉は、信仰共同体が、より大きな「神の家」=世界(オイクメネ)の平和の礎として招かれていることを私たちに示唆するように思われるのだ。
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2010年08月08日

8月8日 愛の速度で

愛の速度で
マルコによる福音書 15章24〜34節

イエスが請われてヤイロという名の会堂長の娘の癒しに向かう途中にさしこまれたもう一つの癒しの物語、それが今日のテキスト。*この女性は最後の、そして一縷の望みを賭けてイエスの衣服の裾にそっと触れる。公衆の面前に出てくることも許されていない身でありながら、律法の縛りを振りほどいて、彼女は群衆の中に紛れ込んだのだ。*イエスの反応から、この癒しが意図せずに起こったことを私たちは理解する。この女性の燃えるような願いが、イエスから「癒し」をもぎ取った、と言えるのかもしれない。*しかし、癒しは、こっそりと「捥(も)ぎ取って」行けるものではなかった。*女性と対面することを求めたイエスは、彼女の「簒奪(さんだつ)」を追及しなかった。それどころか、彼女の苦痛の12年を受け止め、彼女が最早その苦痛の縛りから自由であることを告げる。*イエスは私たちが、掠め取るか捥ぎ取るようにしか手にすることのない神の恵みを、私たちの当然の取り分として公に宣言される。そのことによってのみ、私たちは神と向き合う存在として「全く」される。
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2010年08月01日

8月1日 主を畏れ、主に仕え

主を畏れ、主に仕え
申命記 10章12節-11章1節

日課の箇所は、モーセがイスラエルの民に、神から授かった律法を読み聞かせる部分(12章以下)への導入。砂漠をさ迷う人々に、神に選ばれた民として、祝福の約束に生きるための掟に耳を傾けよと呼びかける預言者モーセの姿がある。*「主を畏れ、主に仕えよ」とくり返されるが、それはとりもなおさず、隣人への愛と労わり、そして、被造世界全体との調和を求める謙虚な姿勢として示される。その姿勢は、神ご自身が貧しい人、傷ついたもの、身寄りのないこどもや女性、寄留者に慈しみ(ヘセド)を示されるゆえに、その民にも期待される生き方となる。*「心の包皮を切り捨てよ」とは過激な勧告だ。神の民の身体的しるしである割礼を魂のレベルにまで敷衍(ふえん)する。*調和を求める生き方に神の義が結実する。
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2010年07月25日

7月25日 多くの部分、一つの身体

多くの部分、一つの身体
コリントの信徒への手紙T 12章14〜26節

使徒パウロのコリントの教会への書簡。教会の交わりにおける一致を強く勧める言葉。*パウロはここで信仰の仲間の関係性を人間の身体に譬えている。人間の体は実に多様な、異なる器官の集合体であり、「互いにお前は要らない、とは言えない」間柄だ。いろいろな機能の「部分」がそれぞれの働きを果たしているからこそ、そこに全体としての「身体」が存在し、一つの「人格」が立ち現れる。*みなが同じでなければ「キリストの体」として統一がとれない、とヒステリックな声を上げる人たちが私たちの教団のなかにも存在する。しかし、教会が「キリストの身体」であるからには、その身体として合わされている私たち一人一人はみな多様で異なる働きを期待されている筈だ。*キリストの身体における一致が「神秘」なのは数ある多様多彩な要素がそのままに、全体として調和へと導かれるからに他ならない。
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2010年07月18日

7月18日 神に仕える者の《富》

神に仕える者の《富》
コリントの信徒への手紙二 6章1-10節

コリントの町は、バルカン半島からペロポネソス半島へと渡る地峡に位置し、古くから交易の要衝として栄えた。そのヘレニズムの象徴のような町で、パウロは二年近く踏みとどまって教会形成に心血を注いだ。しかし、コリントの教会は、生涯彼の悩みの種であった。今朝の手紙もまた、二度目の訪問に希望を抱くパウロが弟子テトスに先駆けとして持たせたもの。*アフロディテの大神殿のある町で、生まれたてのキリストの教会は揺れに揺れていた。指導者を欠いて、様々な疑問や迷いが人々を不安にさせた。中でも社会からの疎外感や暴力は、自らの信仰の価値に自信がもてなくなる大きな要因であったに違いない。*どんな状況でも「左右の手に義の武器を持って」、世には意味のないと見えるものこそ真実に価値あるもの、という逆転の世界を生きるようにとの大胆な励ましの言葉が印象的。
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2010年07月11日

7gatsu11 7月11日 真理は信じる心の中に

真理は信じる心の中に
テモテへの手紙T 3章14〜16節

テモテは使徒パウロと宣教旅行を共に旅した愛弟子で、エフェソの教会の指導を任されていた。その事実に基づき、この書簡は、年若いテモテのための、エフェソでの「牧会マニュアル」としてパウロが書いた、と言う体裁をとる「牧会書簡」。*エフェソはローマの東地中海貿易の中心地、アルテミス神殿を中心に学問や芸術も盛んな大都会。そのような多彩な文化的・宗教的な風土のなかで、生まれたてのエフェソの教会が、「神の家」として確固たる土台を据えるのは並大抵の努力ではなかったはずだ。異教文化の只中で異邦人改宗者が集う教会が、「真実に」キリストの福音を信じ、宣べ伝える群れとなるために信仰する心に刻まれるべき「真理」について言及する。*私たちのこの国の文化風土の只中で、キリストとは誰なのか、またその真理とは、どこに、どのように証されるのか。私たち自身の言葉が求められる。
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2010年07月04日

7月4日 希望のパン種

希望のパン種
ガラテヤの使徒への手紙 5章2〜11節

使徒パウロは、ガラテヤの教会が、自分の宣べ伝えた福音を捨て、後からやって来たユダヤ主義の立場をとる人たちに惑わされて割礼を受けようとしていることを指して「キリストの福音を覆す」愚行だと断じる。そして、律法では救われないと烙印を押された「異邦人」である信徒たちが律法に拠らず、ただキリストへの信仰だけで救われるという「福音」への迷いを抱いて右往左往する様子を戒めようとする。*「外野」からの声に信仰の確信が揺るがされる。僅かな不安や疑念が、教会全体を動揺させる。そのことをパウロは「パン種」を譬えにして語る。*だが同じく、小さな希望、結ばれた一つの信頼関係が共同体全体を支える。そう信じるからこそ、使徒パウロは、互いの間に存在する信頼の絆を手繰り寄せるようにして懸命に手紙を書き人々に語りかける。*希望と信頼の「パン種」をこそ薫り高く発酵させよう。
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2010年06月27日

6月27日 受け継ぐ:預言者から使徒たちへ

受け継ぐ:預言者から使徒たちへ
使徒言行録 13章13〜25節

使徒パウロ一行は、シリアのアンティオキアの教会から送り出されて最初の宣教旅行に出かけ、バルナバの故郷キプロス島を経てピシディア州へと向かう。今朝の日課は、そのもう一つのアンティオキアでのパウロの第一声。*安息日に、シナゴーグで請われて語るパウロは、いまや預言者たちの言葉が実現し、神の福音の恵みが「手に触れられる」形で到来していることを告げる。*物語は「永遠の命を得るよう定められている人たちは皆、信仰に入った。」とこの奨励の効果を記録する。*預言者の種まきを使徒たちが大きな収穫として刈り取る。世代を超えた労苦の実を、私たちもまた感謝をもって育て、刈り入れの労を分かち合おう。
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2010年06月20日

6月20日 罪の赦し

罪の赦し
ヨハネによる福音書 7章53〜8章11節

「罪」とは何だろう。*「姦淫の現場」で捕らえられ公衆の面前に引きずり出された女が「罪」なのか、それならこの女性を不誠実な関係へと取り込んだ「相方」はどうなのか。更に、自分を守る術を全く持たないこの人、「力ある人たち」の憐れみと、神の顧みなしには「正しく」生きることもままならないこの女性を、イエスを陥れ、権威者としてのエゴを満足させるための道具として使い捨てようという、町の重鎮たちは、一体どうなのか。*「罪を犯したことのないものからこの女性を罰せよ」とのイエスの反論は、誰も、神の憐れみにすがる以外、「正しく」生きることなどできない、という、私たちの真実を暴きだす。*赦しの恵みのうちにしか存在し得ない私たちの真の姿を、「的を外す」ことなく見据えよ、との招きか。
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2010年06月13日

6月13日 安らぎへの解放

安らぎへの解放
マルコによる福音書 5章1〜20節

「レギオン」とは「一軍団=兵士一千人」という意味。ゲラサの墓場で暮らすこの男性には一千もの「霊」が取り付き、彼を苦しめ人間としての生活を破壊していたのだ。*イエスはこの「一軍団」もの「霊」に退去を命じた。そして、「霊」が離れ去ったとき、この男性はただ茫然自失の中にあった、と福音書は記している。どれほどの年月、彼はこの霊の軍団に支配されていたのだろう。だが、イエスの退去命令は、この男性の人間としての生を回復した。それは、神が創造の初めに私たちに与えてくださった秩序=美しく良いものとしての命への復帰だ。*「救い」とは、私たちの命が、神の創造の美しさの只中へとイエスによって贖い返される出来事だ。
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2010年06月06日

6月6日 そこでも、私は宣教する

そこでも、私は宣教する
マルコによる福音書 1章29〜39節

イエスのガリラヤでの毎日はめまぐるしい喧騒の中にあった。引きもきらず、癒しを求めてやってくる人たち、イエスの話を聞こうとする人たち、そして、イエスの行う奇跡を一目みようという野次馬や、その行為や言葉を批判しようという律法学者たちに囲まれ、まさに「馳せ場」を走るイエスの姿がある。*だが、その「わやくちゃ」の中、イエスは早朝、一人で祈りに出かける。自分ひとりの時間を、いや、ただ神と向き合う時間を、彼もまた必要とした。*注ぎだし、与えるイエスを支えているのは、そうした自分の限界を自覚し、空っぽの自分をみたして下さるようにと退修して神に向かう、そのつかの間の静かな時間だ。*宣教の中心には「癒し」と「言葉」の養いがある。そしてその根源には、謙虚に神と向き合う静寂がある。
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2010年05月30日

5月30日 心と魂と力とを尽くして

心と魂と力とを尽くして
申命記 6章4〜9節
ローマの信徒への手紙 8章12〜17節
マルコによる福音書 1章9〜11節

「シェマー・イズラエル・アドナイ・エロヘイヌ・アドナイ・エハド(聞け、イスラエル、主は我らの神、唯一の主)」。イスラエルの民が時を超えて、礼拝の度に唱和してきたことばを今朝、私たちも聞く。会衆よ、「聞け!」*礼拝の根幹は、神のみが神であること、そして私たちがこの神以外に命のよりどころも、喜びも楽しみも見出しえないことを宣言することだ。聖霊降臨の季節の最初の主日、私たちもまた、この教会の主は天地創造の主、十字架の主、そして聖霊の賜物の主であることを覚えよう。*この主日に、私たちはこの教会の様々な宣教の業に召された一人一人のために、働きのための祝福を祈る。「教会の宣教の季節」を歩みだすに相応しく、古の契約に耳を澄ましつつ、それぞれの新しい務めを見定めたい。

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2010年05月23日

5月23日 うろたえず、慄かず

うろたえず、慄かず
ヨシュア記1章1-9節・使徒言行録2章1-11節

激しい風と炎の舌が弟子たちの上に降った。大きな力が弟子たちを揺さぶり起こし、復活の主の福音を宣べ伝える業へと送り出した。そこには、世界中の多様なことばで証しされる一つの良い知らせの喜びと力がある。この日降った聖霊は、私たちの間にある全ての違いを、分裂の原因から祝福された賜物へと変容させた。*ヨシュアに降った神の言葉は、時代も空間も超えて「共にいる」真理を語る。だから、目に見えない神の存在にうろたえず、私たちに望む神の力に慄かず、旅を続けるようにと民を押し出す。*弟子たちに下った大きな力のしるしが、時間と空間とをこえて、今日、わたしたちの教会にも、この礼拝の交わりにも約束されている。「うろたえるな、慄くな」との声に信頼して、福音の証しの旅に出てゆこう。
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2010年05月16日

5月16日 うけつがれる心

うけつがれる心
エフェソの信徒への手紙1章15-23節

エフェソの教会は、使徒パウロが3年をかけ、手塩にかけて育てた教会。パウロはこの手紙を、皇帝の裁判をまって幽閉中のローマから書き送っている。*「聖なるものたちの受け継ぐもの」、それは十字架によって贖いとられた「永遠の命」の約束だ。この豊かで栄光に輝く「嗣業」が、全てのものの頭であるキリストを通して教会に与えられているのだ、と。*約束の礎であるキリストはしかし、教会と一体だ。何故なら、教会は主の体であり、キリストが「満ち溢れる」場こそ、私たちの共なる信仰の営みの場=教会なのだから。
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