2010年05月09日

5月9日 見えないものを

見えないものを
ローマの信徒への手紙8章22-27節

使徒パウロは、ローマの信徒たちに懸命に励ましを送る。彼らは皇帝礼拝への一致が強制力を強める中、帝国の首都で孤立していた。全ての悪に勝利する栄光のキリストに結ばれたはすなのに、自らの世に対する「勝利」は全く明らかでない現実の中で、信仰の道に迷いを抱き始めていたのだろう。*だが、パウロは、信仰に根ざした希望は、今ここではっきりと目視できるようなものを対象にしていないことを説く。そして「曖昧喪子」とした希望に留まる信仰の歩みを「心の中でうめきながら待ち望む」、神の被造世界全体の贖いのための「産みの苦しみ」なのだと結論する。*見えないものを、見えないままに待ち望むとき、私たちは信仰的確信と論理的帰結の間のギャップに迷い悩み、魂の呻きをあげる。その深い呻きを聴き取るために、キリストは聖霊の賜物となって再び私たちの元へと降ってこられるのだ。
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2010年05月02日

5月 2日 つながる

つながる
ヨハネによる福音書15章1-11節

葡萄の木は、元々の幹に葡萄ではない植物の枝を接木することによってより強く、個性のある実を結ぶようにするのだと聞いた。イエスという幹に繋がれた枝は、それが元々何の植物であるにせよ、「良い幹」に繋がって農夫である神の目に適う「良い実」を結ぶ。だから「私に繋がっていなさい」とイエスは私たちを招く。*イエスに「つながる」時、私たちはイエスの愛に根ざして新しい命を生きる。イエスに「つながる」私たちの内をイエスの愛が流れ満たし、やがてその愛が、私たち枝の命を通して「良い実」に結実する。*しかも、その「良い実」は、私たちの個々人の業であるよりは、礼拝共同体という一本の葡萄の木の、ひとつの命の営みなのだ。*復活の主の命に共に接木され一つとされる群れに相応しい証しを、追い求めたい。
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2010年04月25日

4月25日 弟子のしるし

弟子のしるし
ヨハネによる福音書 15章31-35節

イエスは受難の前夜、弟子たちに「新しい掟」として、互いに愛し合うようにと語る。しかもその愛は、イエスが弟子たちを愛したのと同じ愛であり、更に弟子たちの愛する姿勢こそが、イエスの弟子たる「しるし」となる、というのだ。*弟子たちの無理解、更に裏切りさえも超えて、墓の底まで下ったイエスの愛は、十字架上で大きく開かれたイエスの両腕のように、一切の自己保全を捨て、完全に世に開かれ、同時に「私」に注がれる。*イエスの弟子となった私たちの互いへの愛の姿勢もまた、世を前にしてその真価が問われる。
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2010年04月18日

4月18日 良い羊飼い

良い羊飼い
ヨハネによる福音書10章7-18節

「私は良い羊飼い・・・良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」。牧師の准允・按手の礼拝で必ずと言って良いほど朗読される箇所が今朝の日課。*イエス自身の言葉でイエスが何者であるかが明らかに語られる。「羊飼い」という呼称が「王」=政治的権力者の称号でもある、という文化を背景とするユダヤ信仰からすると、羊=民のために命を捨てる「王」は斬新なイメージであったに違いない。*羊に呼びかける声と、それを聞き分け応答する羊との親密な関係が、イエスの主権の元に集められる「神の民」の一致の姿に重ねあわされる。*一旦は散らされても、復活の主に呼びかけられ、赦され、癒され、再び一つに結び合わされて、福音の使者となる弟子たちと共に、私たちも主の声に応答し、一つとされ、世の務めへと送り出される群れでありたい。
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2010年04月11日

4月11日 狭間に揺れて

狭間に揺れて
ヨハネによる福音書20章19-31節

「疑うトマス」の物語を復活節第二主日に朗読することは教会の古い伝統だ。驚くべき出来事を体験した弟子たちの不安と希望との間に揺れる心を追体験しようとの礼拝の暦の配慮である。*受難と死の衝撃の後に更に衝撃的な「空の墓」の知らせを受けた弟子たちは、週の初めの日の早朝から日暮れまで驚きと混乱、後悔や恥と喜びの間で激しく揺さぶられて過したに違いない。そして、感情のジェットコースターのような時間を過した弟子たちの中から、トマスのように「安定と確証」を求める声が上がる。*何か、この手に触れられる希望の「証拠」が欲しい、と私たちは願う。トマスの「疑い」は私たちの奥深い所にある、復活の主との人格的出会いへの純粋で真摯な願いの漂白ではないか。*「触れて見なさい」と、その生々しい傷を示して向き合われる主の姿は、幼いこどもが安らぎの抱擁を求めるように、魂の平安を求めて止まない私たちへの、復活の主の自己開示だ。
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2010年04月04日

4月4日 行って、告げなさい

行って、告げなさい
マルコによる福音書 16章1-11節

安息日を、愛する人を失ったショックの中で過ごした女たちを、この朝、更に大きなショックが襲う。墓の入口が開いている、そしてイエスの遺体が安置されているべき場所には見知らぬ人物が・・・。*福音書は、一旦は女性たちがこの衝撃的出来事に怖れをなして逃げ出し証言を拒否したと記すが、すぐその後、主ご自身が最初に復活を告げられたのは女の弟子にであって、主の復活の最初の証人となり、その使信を大胆に告げる彼女を信じなかったのは男たちだ、と書き残す。*受難の主に最後まで寄り添った女たちの声は、後の世に権力を握った者の手によって封じ込められるかに見える。だが復活の主は、女たちの、使徒としての生き様、大胆に、行って、福音を告げる姿の証言に、繰り返し命を吹きこまれる。
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