2011年03月27日

3月27日 イエスとは誰か?

イエスとは誰か?
ルカによる福音書 9章18〜27節

「Ocli〜目を注ぐ」の主日、私たちは福音書の物語によって、「ナザレのイエス」に注目し、この、癒し、語り、奇跡を行う方が誰なのか、告白するよう求められている。*この主日にはまた、私たちは東北地方太平洋岸地域で地震と津波、そして原子力の、人間の制御に服さない巨大な力の下、緊張と疲労の中にある人々に、再び思いを凝らす。*今朝の祈りは、ドイツ・東アジアミッションのHPに掲載された、世界中からの「執り成しの祈り」の中から選んだ。http://www.doam.org/pr_fs_beben2011_fuerbitten.html*日本と、世界中の信仰の群が、東北の被災の只中の人たちに目と心を注いで祈っている。私たちは、この目と心を、どこに注ぐのか。*講壇横の、花瓶の桜の蕾は薄いピンクに染まっている。自然は、それでも新しい命の希望へと目を上げ、体を一心に伸ばしている。
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2011年03月20日

3月20日 どうしてその国は成り立っていくのだろうか

どうしてその国は成り立っていくのだろうか
ルカによる福音書 11章14〜26節

「Reminiscere〜思い起こしてください」の主日、私たちは、被災の中、寒さと飢えと疲労に打ちひしがれる人たち、原子力発電所の暴走を必死で留めようとする人たち、原子の火に怖じ惑う人たち、そして、この深い傷を覆い包むために奔走する全ての人たちの思いを神が憶えてくださるよう祈り、私たち自身もまた、共に困難を担うものとなるよう、力と知恵とを願い求めたい。
           
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2011年03月13日

3月13日 荒れ野で、独りでも

荒れ野で、独りでも
ルカによる福音書 4章1〜13節

受難節第一主日に「荒野の誘惑」の記事を読む。*空腹と疲労の極限で、イエスは人間の根源的な「欲」に立ち向かう。肉体の飢えと渇きを自ら癒すことへの欲求、全てを自分の支配下に置き欲しいままにする「力」への渇望、そして、自分が何者かであることを知らしめよう、という自己顕示欲。どれも私たち自身の中に大きな比重を占める「欲」だ。*これら3つの「欲」に共通するのは、自らの内にある「虚ろ」な場所を、自分の力で満たそうとする傾向ではないか。空腹を、何一つもたない空の手を、そしてなんら飾りも栄光の印もない自らの姿を、私たちは我慢できない。その無防備な「不在」を自ら埋めなくては満足できない私たちがある。*しかし、イエスはその「不在」をそのままに引き受け、その空虚は、ただ神の業とみ言葉によってのみ満たされる、と宣言する。*漠々たる荒野で、たった独りでも、その空虚を引き受けるとき、そこに神の恵みが満ちる時が始まる。
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2011年03月06日

3月6日 分かち合いの只中に

分かち合いの只中に
ルカによる福音書 9章10〜17節

降誕節の最後の主日、「神の子」としての輝きを露(あらわ)に示されるイエスの物語として、湖畔での「五千人の共食」が与えられている。*私たちの創造力、理解の限界を超えて豊かに働く神の恵みが、私たちの日常の些細(ささい)な行為を通して溢(あふ)れる。*極限の中で、命の糧を分かち合い支えあう群れの只中に、奇跡は起こる。神の力の無限に信頼して一つのパンが裂かれるところに、命の祝福が豊かに示される。*救いは分かち合いの只中にある。
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2011年02月27日

2月27日 仕える

仕える
エフェソの信徒への手紙 3章7〜13節

「共同の祈り」によせて
2011年になって、「共同の祈り」を書く際に、ドイツ福音教会のLosungenにインスピレーションを得ている。神戸聖愛教会の小栗献牧師が毎朝、ご自分でドイツ語から訳したものを配信して下さるのだが、私自身の抱えている課題に個別に応えるかのような聖句や祈りの言葉にドキリとすることしきり。*祈りの言葉には、頻繁にドイツの教会でよく使われている賛美歌集から選ばれた歌の一節が選ばれ掲げられている。私は「兄弟団賛美歌」からの引用に心惹かれることが多い。*今朝の祈りも、1544年発刊の兄弟団賛美歌集より、757番と488番に導かれて。488番の「私たちの名が神のみ手に彫りこまれ、助けを送るべき時に光を発する」という言葉に、揺さぶり起こされる思いがした。
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2011年02月20日

2月20日 なにを恐れているのだろうか

なにを恐れているのだろうか
マタイによる福音書 10章26〜31節

*礼拝の暦:Septuagesima(復活前第9主日)
教会の古くからの暦では、本日の主日より「復活前」の歩みを数える。Septuagesimaとは「70日前」の意(正確には9週間=63日なのだが)。*冬の寒さの中にも梅がほころび、桜の枝にも花芽の薄桃が見え、日も長くなる気配を感じはじめるこの季節、私たちは今年の、平年より長い降誕節の歩みにも終わりが近づいていることを知る。
*ドイツ福音教会の礼拝カレンダー(Losungen)より、この主日のための祈りを紹介する。私たちに「肉迫」して下さる神さまに、思考だけでなく、身体全てを委ねる信頼と服従の祈りに、「ぞくっ」っとする。そのような、「肌の感覚」にまで染透る祈りの言葉を、私たち自身のものとしたい。*
あなた、神様(Du Gott,)
私はあなたのそばに身を投げ出して、あなたのもとに座りたいのです。
私をやさしく抱きしめ、私の肌を撫でてください。あなたは私の魂の癒しの香油。
私の全神経があなたを感じます。私の身体の毛穴のすべてがあなたを呼吸します。
あなたはいます。どこにいても。栄光があなたに。あなた、神様!
Gottesdienstbuch in gerechter Sprache/3.Sonntag vor der Pssionszeit Septuagesimae/Einganggebet(Wenn Frauen beten1989より)
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2011年02月13日

2月13日 聖なる寛ぎへの招き

聖なる寛ぎへの招き
ルカによる福音書 6章1〜11節

安息日規定を巡る論争二題。*神の創造の神秘と、奴隷のくびきからの解放を祝って守られる安息日に、私たちはどう振舞うべきなのか。この「休息」の一日を、祝祭のように過すのか、それとも我慢大会をして終わらせるのか、また痛みに共感し、ひとつの命の輝きに注目するのか、それとも・・・。*宗教は儀式で成り立っている。儀式の型が信仰の表現を教え、生き方の方向性を訓練する、その考えはまちがってはいない。しかしその「型」が誠にひとりの人の血となり肉となった時には、「型」は最早その人を縛らず、型にこめられたこころ=ethosが型そのものを破って動き出す。*最も聖なる掟の縛りさえ止揚し、あらゆるくびきを下ろして安息を得るために、私たちの信仰を練り上げることができるか。
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2011年02月06日

2月6日 新しい時をめざし

新しい時をめざし
ルカによる福音書 5章33〜39節

「新しいぶどう酒は新しい皮袋にいれるものだ」とイエスはいう。古い皮袋は、新しいぶどう酒の発酵の力に耐えられずに破れるからだし、熟成された「古い酒」のおとなしい味は、人々に、あえて「新しいぶどう酒」の、硬いが新鮮な酸味を良いものとは思わせないからだ。*「新しいぶどう酒」は荒削りだがその内に多様な可能性を秘めている。その、計り知れない「広がり」は、そのぶどう酒の成長を共にすることのできる「新しい皮袋」のみが受け止めることができる。*福音のことばは日々、新しい。その新鮮さ、その無限の広がりを受け止め、共に成長しようとする信仰の群れもまた、折々に刷新が求められる。
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2011年01月30日

1月30日 喪失の向こう側

喪失の向こう側
ルカによる福音書 21章1〜9節

ガリラヤからやって来たイエスの仲間たちは、都の中央にそびえる神殿にすっかり心を奪われる。ヘロデがその贅を尽くして改装・増築を施したイエスの時代の神殿は、ローマの建築技術を駆使して凝ったアーチや回廊をめぐらし、金や貴石をふんだんに使った絢爛豪華(けんらんごうか)なものだったという。*だが、イエスはこの壮麗な建造物も、その土台の後に一つの石さえ残らないほどに破壊されると、言う。全ては失われるのだ。*何もかも失った独りの女性が、その壮麗な神殿の賽銭箱に僅かな捧げ物をする。とるに足りないと見えるその捧げ物を、イエスはしかし、神の目には最も価値ある捧げ物であると言う。*地上の富の象徴とも言える神殿はやがて失われ、しかしその神殿で捧げられた、名も記録されなかった女性の銅貨二枚の捧げものは歴史を超えて記憶された。*失うことの向こう側で、神が喜んで受け取り記憶してくださる、そう信じて、私たちは、どんなときも、自身の最も良いものを、真心を込めて捧げたい。
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2011年01月23日

1月23日 旅立ち〜別れと出会い〜

旅立ち〜別れと出会い〜
ルカによる福音書 4章16〜30節

イエスの宣教は故郷ガリラヤから始まる。安息日の会堂、小さいころからよく見知った人々の只中で、一人のラビ=説教者として第一声を発するイエスの手にはイザヤの巻物があった。*イエスの時代、イザヤの預言するメシア(救世主)を求める人々の熱心は非常に高まっていた。ローマ帝国の政治的・経済的な圧迫からの解放を願い、神殿を中心としたユダヤの宗教的権威に反発する機運はガリラヤ地方では殊に大きかった。そうした緊張の只中で、イザヤの預言がイエスによって読み上げられ、解き明かされるとき、それを聞く人々は、その語りかけに耳を傾け受け容れるのか、拒否するのかを厳しく問われる。*預言者の語りは、預言者自身と共に、そのことばを受け取る私たちをも「旅立ち」へと押し出す。
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2011年01月09日

1月9日 み心に適う者

み心に適う者
ルカによる福音書 3章15〜22節

「神の子」が、悔い改めのバプテスマを受ける、とはどういうことだろうか。*巷(ちまた)の波にもまれ、様々な柵のなかに喘(あえ)ぐ「罪にまみれた」私たちと同じ、身体の運命を分かち合う存在としてみ子はこの地上にこられた。今、イエスは私たちのこの世の手かせ足かせを全て背負ったまま、生まれながらに与えられた「神の子」としての生涯を、自ら選び取る。イエスの洗礼を通して、私たちは、この、「神の子」でありながら「私たちと同じ」方が、十字架の贖(あがな)いの主であることを心に刻まねばならない。*イエスが自ら、与えられた「道」を選び取るとき、神もまた、聖霊の賜物と愛を注がれる。この神の「愛する子」であるイエスへの信頼と服従によって、私たちもまた「神の子」となることを喜びの内に味わいたい。
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2010年12月26日

12月26日 主の恵みの年を告げる

主の恵みの年を告げる
イザヤ書 61章1〜11節

預言者イザヤは、祖国の破滅の只中で、神が、救いと解放の訪れの知らせを、自分の口を通して語られる、という召命を担い、希望のことばを同胞に語り続けた。*初代の教会は、この預言者のことばの中に、暗い時代の只中に、神の国の福音をもたらしたキリストの誕生の徴を見出し、神の救いの約束に信頼を置いた。*苦しみと痛みの只中にも、神の恵みを数える希望を飼葉桶の中に見出そう。
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2010年12月19日

12月19日 愛は正義、愛は真実

愛は正義、愛は真実
イザヤ書 11章1〜11節

第四の蝋燭(ろうそく)は「愛」。アドベントの歩みを導く様々なシンボルは、おそらくこのひと言に集約されるだろう。「愛」は全てを結ぶ絆、と使徒パウロも言うように、「神の愛」という抽象的な概念は、神の子の受肉=イエスの誕生によって、私たちの目に具体的な徴(しるし)として示され、私たちの渇きと飢えを満たす。*「愛」。それは私たちに、不可能を可能にする力を与える。まだ見ないもの、手にしないものを信じ、希望を持って待つ、忍耐を与える。*預言者の描くユートピアを、私たちは今朝、神の愛の徴として望み見るよう招かれる。闇の只中で、神の愛は遂に勝利し、実現するという幻を、忍耐強く待ち、希望をもってその到来を告げ知らせる群れとなろう。
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2010年12月12日

12月12日 喜び叫べ、喜び踊れ

喜び叫べ、喜び踊れ
ゼファニア書 3章14節〜18節

ゼファニアは、イザヤの活動期と重なって、ヨシア王の幼少期に活躍した預言者だ。ヨシア王は成人して預言者イザヤと共に、後に「申命記改革」と呼ばれる信仰覚醒運動に力を注ぐ王だが、その幼少期、未だ政治の実権を持ち得ない時代にはイスラエルの人々の信仰生活は将に神に背く「罪人」のそれであった。*ゼファニアは、国際政治の舞台で混迷を極める国運を目の当たりにしつつ、尚、唯一の神に立ち返り聴き従う道を選ぼうとしない民に厳しい裁きの警告を発しつつ、しかしその「裁きと怒りの神」が同時に、最も慈(いつく)しみ深く、イスラエルのために、勝利を勝ち取る方であることを告げる。*ヘンデルは、この預言を、オラトリオ「メサイア」の中ではアルトのソロで歌わせている。アルトの声は、慈愛と受容、深い安らぎを象徴するといわれる。神の裁きの前に謙虚に跪(ひざまづ)くことができる「砕かれた心」こそ、神の慈愛の中で安らぎの喜びを得る。

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2010年12月05日

12月5日 魂を生かす祝宴

魂を生かす祝宴
イザヤ書 55章1〜11節

腹をすかせているもの、喉の渇いているもので自分のもとにくるものには、誰でも!対価を要求することなく充分にその必要を満たす豊穣・寛容な神の招きの声をイザヤは取次ぐ。*誰でも、正義と公平の神の声に聞き従い、その「道」を知って導きの内に歩もうとするものには必ず、体にも魂にもみずみずしい命を与えないではおかない神が、約束と招きの「みことば」として私たちに臨まれる。私たちはこの「みことば」に傾聴し、この「みことば」を食べることによって豊かな命を得ることを赦されている。*「みことば」が肉体となって私たちの只中に今年も来られる。その「みことば」こそ、私たちのために天から降ってくる命のパンなのだ。
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2010年11月28日

11月28日 人間・共に生きる

人間・共に生きる
エフェソの信徒への手紙 2章11節〜22節

私たちの礼拝の暦は待降節から始まります。この年も、世の中の慌しい時間を衝いて礼拝の新しい暦が始まります。*私たちは今朝、古い年の悲喜交々を振り返り、それらを感謝と共に記憶に留めつつ、真新しい礼拝生活の入り口で一旦立ち止まることを求められています。待降節は、主イエスの幼子としての到来を待ち望む季節であると共に、神さまの時の終わり、最後の審判の時に臨んで、その到来に備えるときでもあるからです。*神の前に、過ぎし年の歩みを吟味し、自らの過ちを認め、神の前に謙虚に立ち返って赦しを請う事なしに、救い主の誕生と共に、栄光の主の来臨に相応しく備えることは出来ません。新しい暦の入口で、心を鎮め、呼吸を整え、自らの内に視線を向け、自分自身と向き合うときを充分に持ちたいものです。*在りのままの自分の姿は時に私たちを不安にさせ、また苛立たせるでしょう。しかし、その所在ない私たちと共に、その在り難さを生きてくださる方が、私たちの待ち望む幼子であり栄光の主であることを忘れず「留まる」時を持ちましょう
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2010年11月21日

11月21日 王とは誰か?

王とは誰か?
サムエル記下 5章1〜5節

イスラエルの人々は、軍事的指導者としての才能を「神の選び」としてダビデを王に推挙した。先代の王もまた、その軍功と美貌が王としての「相応(ふさわ)しさ」であるとして王に推挙されている。人間の利害や好みが、都合よく「神の声」となる。*ダビデはしかし、このような民の推挙を受け入れ、神と民の前で王の塗油を受け、誓いを立てた。人の思惑や操作の向こう側の、隠された神の意思を確かめようとでもするように。*十字架と復活の主だけが、私たちを統べ治める方であると告白する群れである私たちは、自分の好みや利害を正当化するための「権威」を求めて「王」を作り出すものであってはならない。*畏(おそ)れるべき方はただお一人なのだから。
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2010年11月14日

11月14日 叫びを聞き、痛みを知る神

叫びを聞き、痛みを知る神
出エジプト記 3章1〜15節

モーセは、イスラエルに対するエジプト人の理不尽な政策への義憤(ぎふん)から殺人を犯し、ミディアンの地へと逃亡、「政治難民」として暮らしていた。彼はそこで、土地の有力者エトロの娘婿となり、安定した生活を得ていたが、ある日、「燃えているのに燃え尽きない」柴に引き寄せられ、父祖の神と出会う。*炎の中からモーセに語りかける神は、「イスラエルの民の叫びを聞き、その痛みを知った」故に、モーセの前に自らを現して、民の救世主として遣わすのだとモーセに迫った。モーセはその召しを辞退しようとするが、自らの、多くの恐るべき名を明らかにして迫る神の前に最後は黙して従う。*人間の叫びを聞き、その声に応えて私たちの間に降り立ち、痛みをつぶさに知って共感される方、自ら「有ってあるもの」と名乗る方が、私たちを遣わし、また共に行かれる。その名は燃え尽きない柴の様に尽きない希望の徴(しるし)だ。
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2010年11月07日

11月7日 主は旅人の姿で

主は旅人の姿で
創世記 18章1-15節

マムレの樫の木の下で天幕をはっているアブラハムに主なる神がご自身を現す。主なる神は「旅人」の姿で、アブラハムの日常に「非日常」を持ち来る。それは喜びとともに大きな混乱と不安をアブラハムとサラにもたらす。*思いがけないタイミングと、思いもよらないいでたちで、神は私たちを訪れ、「驚き」を与える。私たちはその「驚き」を、自らの営みのなかで、自分の責任で、人生の「賜物(たまもの)」として受け取ることを迫られる。*「まさか!」の知らせを、祝福として受け取り生かす、大胆で、想像力に富んだ、そして柔軟な信仰が求められる。
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2010年10月31日

10月31日 雲の中に虹を置いて

雲の中に虹を置いて
創世記 9章8-17節

「二度と地上の息あるものを滅ぼすことはしない・・・種まきも刈り入れも絶えることはない」。神は命が拭(ぬぐ)い去られた地上をみて深く後悔し、自らが直接介入をして創造の「秩序」を回復することは二度としない、と誓われる。その徴(しるし)に、美しい虹が雲の間に置かれる。*私たちは、神の名のもとに全てに秩序を要求する。そして秩序回復の大儀の元に、自らの理想とする「枠」からはみ出す命を切り捨て抹殺して平然とする。*だが、私たちが、神の名を騙(かた)り秩序を崇(あが)め奉(まつ)ることは、虹によって封印された契約によるならば胡散臭(うさんくさ)い偶像礼拝だ。*神は二度と、人間の猥雑(わいざつ)な営みを「粛清(しゅくせい)」することを放棄された。わたしたちはこの混沌(こんとん)とした日常をそのままに、その混沌をこそ新しい創造の源としてよろこぶよう、もとめられている。
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