2012年04月22日

3月25日 時が来た

時が来た
ヨハネによる福音書 12章20-36節

12:20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 12:21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。 12:22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。 12:23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。 12:24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 12:25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 12:26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 12:27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 12:28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」 12:29そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。 12:30イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。 12:31今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。 12:32わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 12:33イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。 12:34すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」 12:35イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。 12:36光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。

イェスの噂は他の地方にも届いていた。この話にでてくるギリシャ人は何とかイェスと会ってみようと仲介してくれる人を捜し、頼み込んでいる。そうしなければならないほどイェスの周りに多くの人が集まっていたのであろうか。私はここでイスラエルの民以外の人がイェスに会おうとしていること、そしてイェスがそのことを受けて「時が来た」と語っていることに注目したい。当時一部族の宗教であったユダヤ教が他の民族をも対象とするものに変わった事がここから始まっていると感じられる。
なんとかしてイェスと出会いたいというこの思いを私ももち続けたいものだ。
                               (BY deacon I.N.)
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3月18日 香油を注がれた主

香油を注がれた主
ヨハネによる福音書 12章1-8節

12:01過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。 12:02イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。 12:03そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 12:04弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。 12:05「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 12:06彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。 12:07イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。 12:08貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

ユダヤの民にとって油を注ぐと言うことは大きな意味があります。ユダヤの国の最初の王であるサウル王は預言者サムエルによって油を注がれました。もっと時代を遡れば出エジプト記に「アロン(モーセの兄)とその子に油を注ぎ聖別し祭司とせよ」とあります。油を注がれたものは聖別されたものであり、王も油を注がれたものなのです。マリアは非常に高価な油(現在の価値で言えば300〜500万円程度)でイエスの足をぬぐっています。これだけ高価な油を用意できたことからもラザロの家は決して貧しいことはなかったと思いますが、普通はびっくりしますよね。でも、この行為は重要だったと思うのです。イエスは当時低く見られていた女性によって聖別された。イエスを本当に必要としていたのは、そしてイエスを主と崇め、自分の出来る最高のもてなしをしたのは虐げられた人々であったのです。
                                   (BY deacon I.N.)
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3月11日 救い主から離れず

救い主から離れず
ヨハネによる福音書 6章60-71節

6:60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」6:61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。6:62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。6:63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。6:64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。6:65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」6:66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。6:67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。6:68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。6:69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」6:70すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」6:71イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

本日の聖書箇所はその前の部分を知らなければ何のことか分からないでしょう。この前の部分ではイェスは自分のことを「天から降って来た生きたパン」と言い、自分の肉を食べ、血を飲まなければ救われないと語っています。そしてモーセがイスラエルの民と荒野の放浪していたとき天から与えられた「マンナ」よりもこの「生きたパン」が良いと言っているのです。自分たちの祖先が神から与えられて命を繋ぎとめたものを悪く言われユダヤの人々は憤慨します。しかもそれより自分の肉と血が上だと言われたのです。イェスの弟子達の中にもこの騒ぎは広がっていきます。イェス本人を目の前にした状態でその肉や血といわれたら弟子達も理解出来なかったのでしょう。
今、私たちは聖餐に於いてパンとぶどう酒をイェスの肉と血として受けています。イエスの存在を自分の血や肉として受け容れることがイェスと離れないことなのではないでしょうか。
                                 (BY deacon I.N.)
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3月4日 救い主への信仰

救い主への信仰
列王記下 6章8-17節
ヨハネによる福音書 9章13-41節

6:08アラムの王がイスラエルと戦っていたときのことである。王は家臣を集めて協議し、「これこれのところに陣を張ろう」と言った。6:09しかし、神の人はイスラエルの王のもとに人を遣わし、「その場所を通らないように注意せよ。アラム軍がそこに下って来ている」と言わせた。6:10イスラエルの王は神の人が知らせたところに人を送った。エリシャが警告したので、王はそこを警戒するようになった。これは一度や二度のことではなかった。6:11アラムの王の心はこの事によって荒れ狂い、家臣たちを呼んで、「我々の中のだれがイスラエルの王と通じているのか、わたしに告げなさい」と言った。6:12家臣の一人が答えた。「だれも通じていません。わが主君、王よ、イスラエルには預言者エリシャがいて、あなたが寝室で話す言葉までイスラエルの王に知らせているのです。」6:13アラムの王は言った。「行って、彼がどこにいるのか、見て来るのだ。わたしは彼を捕らえに人を送る。」こうして王に、「彼はドタンにいる」という知らせがもたらされた。6:14王は、軍馬、戦車、それに大軍をそこに差し向けた。彼らは夜中に到着し、その町を包囲した。6:15神の人の召し使いが朝早く起きて外に出てみると、軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。従者は言った。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」6:16するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、6:17主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。

9:13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。9:14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。9:15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」9:16ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。9:17そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。9:18それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、9:19尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」9:20両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。9:21しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」9:22両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。9:23両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。9:24さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」9:25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」9:26すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」9:27彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」9:28そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。9:29我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」9:30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。9:31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。9:32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。9:33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」9:34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。9:35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。9:36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」9:37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」9:38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、9:39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」9:40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。9:41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

見るということは人間が情報を得る手段としては非常に大きいものです。聖書にはしばし目や耳の不自由な人が描かれています。当時の世界では病や障害は神からの罰(罪の報い)として考えられていたこともあり、彼らは非常に虐げられた存在でした。彼らが癒されるということは罪を赦されると言うことであり、ファリサイ派の人々や祭司長からすると信じられないことだったのでしょう。自分の理解の範疇を超えたものとであったとき、それをなかなか受け容れられず、なんとか自分の常識の中に押さえ込もうとしてしまいます。それができない時はその出来事を拒絶してしまうものです。
現代に生きる私たちも、自分たちの常識からはずれたことをなかなか理解できません。正に「見えていない」状態なのです。イェスによって見えるようになること、それを受け容れられるようになることができますように。
                                 (BY deacon I.N.)
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